学年

教科

質問の種類

数学 高校生

なんでこんなめんどくさい事するのか教えてください

> デスク1 42 互いに素であることの証明問題 (1) 基礎例題 86 (1) a き, a +9 は 21 の倍数であることを証明せよ。 は自然数とする。 α+2 が7の倍数であり, α+3 が3の倍数であると 基礎例題 80 発展例題 97 000 (2) 自然数αに対し, a とα+1は互いに素であることを証明せよ。 CHART 答 GUIDE 重要な性質 aとbが互いに素αともの最大公約数が1 a,b,c は整数で, a, b は互いに素であるとする。 1. ac がもの倍数であるときは6の倍数である。 2.αの倍数であり,bの倍数でもある整数は ab の倍数である。 (1) k, lを自然数として a+2=7k, a+3=31 と表すことからスタート。 ② a+9 を a+9= (a+2)+7, a+9= (a+3) +6 と2通りに表す。 (2) 3 α+9 は7かつ3の倍数となるから, 2. を用いて 7・3の倍数とする。 aとα+1の最大公約数をgとして,g=1 となることを示す。 +2, a +3 は自然数k, lを用いて a+2=7k, a+3=3l と表される。 ← 「αは自然数」でな 00 整数」の場合 様に成り立つ。 α+9= (a+2)+7=7k+7=7(k+1) ① a+9= (a+3)+6=3+6=3(+2) の倍数なら =k(kは整 ① より a+ 倍数であり,②より α+9 は 3 でも" こす に素であるから, α+9 は 73 。 )=3(1+2) 性質2.を利用 ←α+9 を消去。 であるが, いに素で性質1.を利用 整数)と表 k+1が3の

未解決 回答数: 1
日本史 高校生

宝暦、天明期の文化の問題です。15番を教えてください。

やまがただい [12 明和事件] (1767) 山県大弐 江戸で尊王論→死刑 がもうくんべい らいさんよう 高山彦九郎 諸国遊説, 蒲生君平 『山陵志』 頼山陽 『日本外史』 (3) 生活から生まれた思想 ぜんかん とひ とあん ①心学(京都) (13石田梅岩 『都鄙問答』 平易な町人道徳 手島堵庵・中沢道二らが ② 封建社会への批判 (4) 儒学と教育 ① 幕府 ふんど (14 安藤晶益 『自然真営道』 万人直耕の自然の世が理想 18世紀後半 儒学のうち古学派 折衷学派・考証学派がさかん →寛政異学の禁(1790) で朱子学を正学に→官立の昌平坂学問所設置 ほんと ② 諸藩 藩校(藩学) 藩士の教育 郷校(郷学) 城下から離れた地の藩士や庶民 ③民間 私塾 [15 〕 (大坂) 町人出資, 富永仲基(16 井幡彬) なかもと 寺子屋 一般庶民の初等教育, 読み・書き・そろばん 女子教育 『女大学』 貝原益軒の著作をもとに作成 女性の心得を説く (5) 文学と芸能 出版物や貸本屋の普及 さんきょう しかけ きょうし ① 小説 17 洒落本〕:118 山東京伝) 『仕懸文庫』 [19 黄表紙 〕: 恋川春町 『金々先生 ほん [20 よきぶそん 上田秋成 『雨月物語』 ② 俳諧 与謝蕪村 (天明期) 『蕪村七部集』 はやる なんぼ しょくさんじん やどやのめしも ③ 風刺 川柳 柄井川柳ら撰 『誹風柳多留』 狂歌: 大田南畝(蜀山人), 石川雅望 (宿屋飯盛 ) でんじゅてならいかがみ ④浄瑠璃 竹田出雲 (18世紀前) 『仮名手本忠臣蔵』 『菅原伝授手習鑑』 近松半二 (18世紀後) 『本朝廿四孝』 るの だんきん (6)絵画 ① 浮世絵 宝暦期 [21 錦絵 〕 (22鈴木春信) 「弾琴美人」 など 多色刷りの版画を ME ふじょうちゅっぽん 寛政期 美人画 〈23 喜多川歌麿) 「婦女人相十品」など とうしゅうしゃちく えびぞう 役者絵・相撲絵 (24東洲斎写楽 「市川蝦蔵」など 大首絵の手法 ②写生画 (25円山等) 「雪松図屏風」 など 遠近法の手法 円山派 立画(画) 26

解決済み 回答数: 1
倫理 高校生

2と3、答えが入れ替わっていませんか?

98 第 4 章 国際化と日本人としての自覚 3 日本における儒学の展開 1603年 徳川家康 江戸幕府を開く (265年間) ・・・戦乱の終結による世の中の安定 世の中に対し超然とした態度をとる仏教に代わり, 現実社会の人倫に主眼を置く儒教が定着 (1) 朱子学派 5代将軍綱吉 (元禄期) 文治主義により朱子学を官学とし儒学を奨励 →朱子学の考え方が、江戸幕府が統治体制を維持していく上で、都合が良いものであった。 いんげんじゅ 桂庵玄樹 室町時代の禅僧(臨済宗) 明で朱子学を学ぶ わい (1427~1508) 菊池・ 隈府 (熊本) で朱子学を講義→薩摩へ (薩南学派を形成) げんぞく - X (' ) 近世儒学の祖 禅僧-京都五山で朱子学を学ぶ。 ⇒還俗し儒学者へ はやしざん 林羅山 (2 ] 身分秩序の上下関係は天理にかなった秩序である。 (1583~1657) 日本朱子学 の祖 「天は尊く地は卑し,天は高く地は低し、上下差別あるごとく人にも また君は尊く民は卑しきぞ」 幕藩体制を支える封建的身分秩序の根拠となる。 つつし 『三徳抄』 (3 『春鑑抄』 日常生活の言動を敬んで, 天理 (永遠の秩序) を守り社会の秩序や礼儀 に従うよう修養に心がける。 大名(例 ) 平の神と朱子学の生の一致を配さて我を重んじる。 そんのうじょうい (1618~82) ( 神儒融合 ) →幕末の尊王攘夷に影響を及ぼした。 新井白石 (1657~1725) 幕政に参与 宣教師シドッチを尋問し「西洋紀聞』を著す あめのもりほうじゅう 雨森芳洲 (1668~1755) 対馬藩に仕える 朝鮮外交を担当・・・ 「誠信の交わり」 (友好外交) に尽力 かいばらえきけん 貝原益軒 (1630~1714) 福岡藩に仕える 朱子学の窮理の精神にもとづく博物学的研究書である 『大和本草』 や 『養生訓』・『和俗童子問』 などの教訓書・教育書を著す ・・・朱子学の観点からキリスト教を批判 西洋の科学技術は評価 (2) 陽明学派 なかえとうじゅ 中江藤樹 ・・・すべての人の心に天が与えた道徳の根本 普遍的な真理 すべての人を愛し、 すべての人を敬うこと ( 愛敬) ←時・処 (場所) 位 (身分) に応じた道徳の実践 形式より心の内面のあり方を説く ) (1608~48) 近江聖人 文化と伝 日本陽明学 の祖 『翁問答』 陽明学 晩年に傾倒 ⇒P.39 くまざわばんざん 熊沢蕃山 (1619~91) ⇒宇宙万物を存在させる根源を全孝という。 生まれながらに持っている心の本質・・・ 善悪を判断できる力(良知) それを自覚すること・・・良知を発揮すること ( =致良知) ) 「良知によって知り得たことを実践すること」 中江藤樹の門人師の「時・処位」の思想を継承 状況に応じた礼の実践 聖人の跡ではなく心を学ぶべきであると説く。 岡山藩池田光政に仕える。 治山治水に業績 環境保護の思想

解決済み 回答数: 1
日本史 高校生

何をどう挽回しようとしているのですか

強兵のために貿易が必要であるとして、外交を担当する外国奉行を いて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結ん あんせい 貿易は、1859 (安政6)年から横浜 日 長崎 箱館の3港で始まった。 ばんかい げんじ 「長州藩はこれを挽回しようと、 1864 元治元)年に京都で会津藩・薩摩藩 きんもん ついとう など幕府側と戦ったが敗れ (禁門の変)、 朝廷の命で幕府による追討を受 せい しものせき けた(第1次長州征討)。 長州藩は、前年の外国船砲撃の報復としてイギ リス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊による 下関砲台 への攻撃も受けたため、攘夷の不可能を悟り、幕府に従う態度をとった。 「幕府はこのあと、1865 (慶応元) 年に朝廷から条約の勅許を獲得した。 こんだん よこすか ✓かくと また、フランスから顧問団を招いて横須賀に造船所を設けたほか、 陸軍 でんしゅう 伝習をおこなって軍事力の全面的な洋式化を進めた。一方、長州藩では、 きた たかすぎしんさく。 身分を問わない志願者による奇兵隊を率いた高杉晋作らの挙兵によって 桜田門外の変 (茨城県立図書館蔵) きょうへい とうかいどう ●神奈川が交通の多い東海道の 宿駅だったため、 神奈川のかわ りに横浜を開港した。 1839-67 ほうき じょうい 当時の将軍が病弱で子がなか ったところから跡継ぎが問題と なった。 井伊直弼ら血統の近さ を重んじて徳川家茂を推す伝統 的な立場と、困難な時期である から賢明な徳川慶喜が望ましい とする立場とで対立した。 けっとう この時、幕府は朝廷に条約の勅許を求めたが、通商は明確な 。小五郎(木戸孝充)らもとの尊王攘夷派が主導権を回復し、これに対 の放棄であり、攘夷の風潮が強かった朝廷は条約を結ぶことをして幕府は再び長州征討を宣言した(第2次長州征討)。しかし、第1次 かった。当時は将軍の跡継ぎをめぐる対立のがあり、対立する双方 長州征討中から幕府の実力に疑問をもち、長州藩尊王攘夷派との関係を 廷に働きかけた結果、朝廷の発言力が高まっていた。それでも深めてきた西郷隆盛や大久保利通の主導した薩摩藩はこれに応じず、 直弼は条約を結び、批判者を弾圧したが(安政の大獄)、天皇をない 1866 (慶応2)年に坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結んだ。 1827~77 ちゅうかい さっちょう そんのう 1835-67 「あんさつ ろにしたとして尊王攘夷の立場からの反発が強まり、 1860 (万延元)年(15 まんえん 横浜には1863 (文久3)年からイギリスやフランスの さくらだもんがいへん 暗殺された(桜田門外の変) 。 これにより、幕府の権力が動揺したた どうよう 貿易の動向 ちゅうん 軍が駐屯し、攘夷の動きにもかかわらず、 貿易は 幕府は、朝廷と融和する公武合体をめざし、孝明天皇の味である おおむね順調に発展した皿。 輸出では生系・茶・義崩紙」が主であった。 を14代将軍徳川家茂の妻に迎えた。 また、 朝廷の要請を受け入れて、 太平天国の乱で上海周辺の蚕糸業 地域が荒廃したため、 中国にかわ 「在位 184666 ようせい たいへいてんごく シャンハイ さんしぎょう こうはい おりもの 1846 16~66 しっきゃく よしのぶ 政の大獄で失脚した徳川慶喜を将軍後見職とするなど改革を進めた って生糸の輸出がのび、 国内生産が急速に拡大した。輸入品は、 織物 なんぼく 1837~1913 「ちょうしゅうはん こうしたなか、 尊王攘夷派が主導する長州藩は朝廷に対する影響のほか、 クリミア戦争や南北戦争の中古品を幕府や諸藩が輸入した武 ぶんきゅう じょうらく を強め、 1863 (文久3)年には朝廷の命として家茂を上洛させて攘 を約束させ、みずからも関門海峡を通過する外国船を砲撃した。薩 かんたい あいづ なまむぎ さつえい 「さっ! かんりんまる p.54 しせつだん 藩も前年のイギリス人殺害事件 (生麦事件)の報復として鹿児島湾に ほうふく 関係を築き、幕府や会津藩と結んで長州系の勢力を京都から追放した。 したイギリス艦隊と交戦したが (薩英戦争)、 その後、イギリスと良好な 器 艦船が主であった。 貿易は輸出超過であったが、 1860年代後半にな ると、軍事関係の輸入が増えて輸入超過となった。 当時の中国では民衆 の消費するアヘンが多く輸入されたが、日本では幕府や藩が銃砲や艦 船を輸入して財政難を深めていった。 じゅうほう ひじゅんしょ 幕府は1860 (万延元)年の日米修好通商条約の批准書交換に海軍伝習 経験者が乗り組んだ咸臨丸を含む使節団をアメリカへ送ったのをはじめ、 四国連合艦隊による下関 国連合艦隊によ 台の占領 砲台の大砲は、長 州藩がつくった青銅製の洋式 砲。攘夷論では刀での戦いが 主張されたが、イギリス軍の 記録によれば、イギリス兵の 死傷原因は銃砲弾と矢が主で 刀や種によるものはなかった 石炭2% その他 海産物 12% 7% 1867年 64 第2章 近代ヨーロッパ・アメリカ世界の (横浜開港資料館蔵) この戦いによって、長 州の尊王攘夷派は何を 感じとっただろうか。 けん 繰り返し欧米に使節団や留学生を派遣し、長州 薩摩藩もひそかに視 とこう 察者や留学生を派遣した。 1866 (慶応2) 年に幕府が海外渡航を解禁する と諸藩もこれに続き、 欧米社会の知識が本格的にもたらされた。 8% 1蚕卵紙は、蚕の卵が産み付 られた紙。 日本産の蚕は病気 強いことから当時のヨーロッ で歓迎され、 蚕卵紙のかたち 輸出された。 あんか 織物は機械制生産により輸 品が比較的安価であり、 国内 産されていなかった毛織物な が、めずらしい風合いや柄の めに人気を博した面もあった。 日本と中国の主要貿易 品で、 共通する点、 異 なる点は何だろうか。 それ ぞれ、その背景も考えてみ よう。 1867(慶応3)年の日本と中国 の輸出入 石炭 海産物が日本 から中国に輸出され、 米・砂糖・ ゆんか 綿花がアジア内の貿易であるほ かは、欧米との貿易。 両国とも 輸入超過で金銀が流出している (石井孝「幕末史の研究」 Hsiao Liang-lin, China's Foreign Trade Statistes, 1864 1949などより作成) 米2% 石炭2% 海産物2% 糸2% 原総 7% 茶 生糸 29% 7895万ドル」 60% 1867年 中国輸出 綿花 絹製品 3% その他 その他 4% 10% 織物 綿糸 21% 6% 1867年 生糸 砂糖 8% 44% 1212万ドル 16% 蚕卵紙 艦船 18% 米 11% 武器 茶 日本輸出 19% 日本輸入 2167万ドル 物 20% 13% その他 109 1867年 中国輸入 9768万ドル 20% 7 中国の開港と日本の開国 45%

解決済み 回答数: 1
1/6