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青森県に住む高校二年生の武は、やりたいことが見つからず、進路調
票を提出できずにいた。そんなある日、公民館職員の向井さんに誘われ
刺しの工房を訪れ、 より子さんから手ほどきを受けることになった。
間違えたところの糸を引き抜いていると、
「綾ちゃん見てると、 初心ば思い出すねえ」
とより子さんが言った。あたしの手元を見つめてほほえんでいる。
「より子さんは何がきっかけで始めたんですか?」
「服のおつくろいだな。 おはじきだのあやとりだのと同じく、遊びの延長
でやったもんだ。 友だち集めてさ。 我も最初は裏から刺すのが苦手での。
布っこぼ持ち上げて覗き込んで刺したもんだ。 別なこと考えながら刺して
妙な形さなるのはしょっちゅうだった。だども、何べんもやり直しできる。
気楽に失敗できたんだ。 家族のっこき刺してせ、喜んでもらえるのは嬉
しかったねえ」
「へえてくれましたか?」
「ん。上手でなかったどもな。 我だって、子どもや孫が、我のために
刺しければ、どんな物でも嬉しいもんだよ」
より子さんは、①好物を食べたみたいな顔をして目を閉じた。
「アッパは擦り切れるまで着てけだもんで、我は大満足だったし、友だち
ともおしゃべりしながら刺すのは本当に楽しかったねえ」
アッパとは、母親のことらしい。父親のことはダダと呼んだそうだ。
刺しは貧しく苦しい生活のせいで、やむなく刺したというような仄暗い印
象があったけど、こうして実際刺したり、 より子さんの表情を目の当たり
にしていると、そればかりじゃなかったのかもしれないと思えてくる。
確か、向井さんは「おいしい物をずーっと食べていたいような感じ」
とたとえていた。 それはある。 加えて、刺しは単なる針仕事ってわけじ
ゃない。 家族や大切な人に温かな着物を着せたい。 どうせなら色や柄を
楽しみたい。そういう想いがある。
だからか。 だから刺しをやっている閉じゅう、 満たされているのか。
②それなのに。
お父さん、パワハラー。
ガッチガチの頃してると。
あの時の父の顔が目に浮かぶ。
いつも通り表情はほぼ動かなかった。だからこそ、うろたえているのが
透けて見えてしまった。
父と似ている指先を見る。 針で突いた時の痛みを覚えている。
何も知らない癖に、あたしは頭に浮かんだ言葉をそのまま吐いたのだ。
スマホの予測変換で出てきた言葉をろくに意味も分からずにそれらしいか
と反射的に使うみたいに。 あたしはスマホじゃなく、人間のはずなのに。
父がどう思うかなんて考えちゃいなかった。
とはいえ、改めて謝るのもなあ。 他人相手ならできることが、親だとな
ぜか難しくなる。
視線をさまよわせたあたしの日を引き寄せたのは。
「より子さん、そこに飾ってあるような財布とかバッグのような目の細か
布に刺す方法を教えてください」
コングレスを、本来刺したい生地にあてがってその上から一緒に刺す方
法を教わった。
要するに目の粗い布を目印にするのだ。
刺し終わったらコングレスの糸を切って一本一本引き抜くと、生地に菱
刺しが残るという寸法だ。
ワンポイントの模様はその夜のうちにできあがった。
ハサミを置くと、ゴツッと大きが出た。 静かで慎み深い菱刺しの
時間がぶつりとたち切られる。
改めて持ち上げて、ハサミが机の上にのってから手を放してみる。 音は
せず、時間はつながり、余韻が残った。
あたしは通学用のリュックを引き寄せ、 進路調査票を取り出した。 テー
ブルの上の刺しの道具を脇に寄せ、調査票の折り目を丁寧に伸ばす。
翌朝。
「お父さん、 これ」
あい
洗面所で出勤準備をしている父に、昨夜完成させた菱刺しを施したネク
タイを渡す。
父は鉄製であるかのような堅牢な眼鏡を押し上げて、まじまじとネクタ
イを見た。 相変わらず鉄壁の無表情だ。
「気に入らなかったら、無理にしてかなくていいから。 それから、あたし、
八戸工業大学で伝統デザイン勉強しようと思う。 進路調査票にはそう書
「くつもり」
宣言すると、洗面所を出た。
父は締めてくれるような気がした。 残念なことに、あたしと父は似
ているから、あたしの前では一生縮めないだろうけど。
藍色のネクタイに刺した模様は、海のベこだ。ネクタイの剣先に刺した。
こうちょう
淡い水色の亀甲模様とくすんだピンク色のベこの。かわいい。 マーサさ
んの見本ではシックに見えたが、色遣いによってポップにもなるらしい。
新発見だ。 模様と色の組み合わせは無限だから、この菱刺しという物、
生飽きずに続けられそう。
厄介な上司はきっとネクタイに気づくだろう。 揚げ足を取るような人な
ら見逃すはずがない。 父とのギャップに驚き、話を振るだろう。 笑うかも
しれない。
娘はできることはしました。あとはお父さん次第です。
結果を言えば、帰宅した父はスーツのまま、背筋を伸ばし無表情であた
と母の前を無意味に往復した。
高森美由紀 「藍色ちくちく」による)
この文章の表現上の特徴について述べたものとして最も適当なものを、
次のアから工までの中から選びなさい。
ア 親子の感情のやり取りを会話文を軸に描く一方で、主人公の心の内面
は地の文で簡潔に描いている。
イ あえてことばを省略し登場人物の気持ちを読み手に想像させることで、
文章全体に味わいや余韻を持たせている。
ウ 文末に現在形を多用することで、畳みかけるようなリズムを持たせ、
文章全体に躍動感を生み出している。
同じことばを反復して使うことでそのことばを印象づけ、主人公の決
意や感情の変化を強調し説得力を持たせている。