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C <政治改革> No. Date C O 国家財政悪化の原因となった地方政治の緩みをなくそうとし、増えていた 定員外の国司や郡司を廃止するとともに、新たに(勘解由使)を設けて、 国司の交替の際の事務引継ぎを厳しく監督。再生し りょうげのかん 今に定められていない新しい官職:(令外官)の 1つ。国司在任中の租税徴収や官有物の管理 などに問題がない場合に新任国司から前任 国司に与えられる解由状という文書の審査をした。 ○792年、東北や九州などの地域を除いて軍団と兵士を廃止し、かわりに 少数精鋭の(健児)を採用。 こんでい にしょ 平城大上天皇は病気を理由 に嵯峨天皇にゆずったが復活 兄の平城大正天皇と対立し、(「二所朝廷」)と呼ばれる政治的混乱が 生じた。 C <嵯峨天皇> ○ O ↓ ○ 大上天皇を出家に追い込み、その寵愛を受けていた(藤原菓子)は自殺。 藤原仲成は射殺された。 なかなり ⇒(平城大上天皇の変・菓子の変) C くろうどのとう 天皇の秘書官長としての(蔵人頭)が設けられ、藤原(冬嗣)らが任命された。 役所が(蔵人所) けびいし 平安京内の警察に当たる(検非違使)を設けた。のちに裁判まで行った。 ・律令制定後、社会の変化に応じて出された法令を、律令の補足・修正法で ある(格)と施行細則である(式)に分類・編集し、(弘仁格式)がつくら れた。 じょうがん えん 三代格式…(弘仁)格式・(貞観)格式・(延喜)格式 KOKUYO LOOSE-LEA ノ-83696mm ruled 56
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No. Date 平安京への遷都から、源頼朝が 平安時代~鎌倉に幕府を開くまでの約400年間, (桓武天皇は、仏教政治の弊害を改め、天皇権力を強化する ために、784年に平城京から山背国の(長岡京)に遷都。 ↓しかし… (藤原種継)が暗殺され、その首謀者とされた皇太子の早良親王(桓武 ふじわらのたねつぐ 天皇の弟)が地位を追われる事件がおきた。親王は自ら亡くなるが、 その後、桓武天皇の母や皇后があいついで死去するといった不幸があり、 親王の怨霊による][もの]とされた。] 怨霊の問題や、長岡京の完成の遅れ→794年に(平安京)に再度遷都 官道 こくみ ○ 国府 関 ●軍団 城 太平洋 100km 米代川 陸 秋田城 志波城 '803 733 日本 おもの 海 雄物川 徳丹城 813 <蝦夷との戦い> ・780年に服属していた蝦夷の豪族 (伊治呰麻呂)が反乱をおこし、一時は これはりのあざます おがち 雄勝城 759 上 胆沢城 もがみ ミ 802 最上川」 出羽柵708- 伊治城 767 桃生城 759 おじか いわふね 佐渡 舟柵 648 野川 いわせ 石背 渟足柵 647 718-7277 しらかね、 白河関 東北地方の城柵 東北の城柵 は北上川や日本海沿いを北上 するように営まれていった。 城柵を拠点に、政府の行政支 の浸透がはかられた。 牡鹿柵 737 ・多賀城 724 ● いわき |石城 718~727? なこそ 菊多関(勿来関) 多賀城をおとしいれ焼き払うという大規模 な戦いへと発展。 あてるい 789年、蝦夷の族長(阿弖流為)の活躍 により政府軍が大敗。 ・征夷大将軍となった(坂上田村麻呂)は、802年、 (胆沢城)を築いた。 しかし… 東北地方での戦いと平安京の造営という二大政策は、国家財政や 民衆にとって大きな負担となったため、805年、桓武天皇は(徳政 相論)と呼ばれる議論を裁定した。 そうろん とくせい
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No. Date 中国は(宋(北宋))によって再統一されたが、日本は東アジアの動乱や中国 中心の朝貢関係を避けるために、宋との間に正式な国交を開かなかった。 ・九州の博多に来航した宋の商人を通じて、 <輸入> ②薬品 ①書籍や陶磁器などの工芸品 ちょうねん <輸出> ①金 ②水銀 ③真珠 ④硫黄 じょうじん ・10世紀末の蒼然、11世紀半ばの成尋らのように、宋の船を利用して 大陸に渡り、宋の文物を日本にもたらす僧もいた。 →斎然が持ち帰った釈迦如来像は、京都嵯峨の清涼寺に 安置されて厚い信仰を獲得し、経典は摂関家にささげられた。 <中国東北部>奈良時代以来親交のあった渤海が、10世紀前半に (契丹(遼))に滅ぼされた。 日本と国交なし <朝鮮半島> 10世紀初めに(高麗)がおこり、やがて新羅を滅ぼして 半島を統一。
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<国風文化> 9世紀後半から10世紀になると、貴族社会を中心に、それまでに 受け入れられた大陸文化をふまえ、これに日本人の人情・嗜好を加味し、 さらに日本の風土にあうように工夫した、優雅で洗練された文化。 文化の国風化を象徴するのは(かな文字)の発達。万葉仮名の草書体を 簡略化した(平がな)や、漢字の一部分をとった(片かな)は早くから表音文字として 用いられていたが、9世紀後半には、それらの字形が人々に共有されて、広く使わ れるようになった。 その結果、人々の感情や感覚を、日本語でいきいきと伝えることが可能になり、 多くの文学作品が生まれた。 きのつらゆき <和歌> 905年、(紀覚え)らによって 最初のかなの日記として知られる「土佐日記」も著した。 最初の勅撰和歌集である(古今和歌集)が編集された。 C <かな物語> C 伝説を題材にした竹取物語や歌物語の伊勢物語 ③中宮彰子(藤原道長の娘)に仕えた紫式部の(源氏物語) たか C④定子(藤原道隆の娘)に仕えた清少納言が宮廷生活の体験を随筆風に 記した(枕草子) はくしもんじゅう 国文学で最高の傑作とされているが、両者とも「白氏文集」など中国文学への 深い理解を背景にもっている。 C かな文字の隆盛は、貴族たちが天皇の後宮に入れた娘たちにつきそわせた、 すぐれた才能をもつ女性たちに負うところが大きい。 祈祷を通じて現世利益を求める貴族と強く結びついた→天台・真言 神仏習合も進み、仏と日本固有の神々とを結びつける(本地事業説)も生まれた。 ・怨霊や疫神をまつることで疫病や飢饉などの災厄から逃れようとする御霊信仰が 広まり、(御霊会)がさかんにもよおされた。 ② ごんげん ●神は仏が仮に形をかえてこ の世に現れたもの(権現) とす る思想で、のちには天照大 みかみ だいにちにょらい しん あまてらすおお 神を大日如来の化身と考え るなど、それぞれの神につい て特定の仏をその本地として 定めるようになった。 さわら 2 御霊会は、初め早良親王 (p.55) ら政治的敗者の霊をな ぐさめる行事として、 9世紀 半ばに始まったが、やがて疫 病の流行を防ぐ祭礼となった。 きたのてんまんぐう ぎおんしゃ やさか 北野天満宮や祇園社 (八坂神 社)の祭りなどは、もとは御 霊信仰から生まれたものであ
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No. Date <地方政治の展開と武士> 902年(延喜の荘園整理令)違法な土地所有を禁じる。 班田を命じたり、律令制の再建を目指す。 郡司の力が衰える 失敗! ・戸籍・計帳の作成や班田収授も実施できない ・調・庸を取り立てて、諸国や国家の財政を維持できない事態に 直面した政府は、9世紀末から10世紀後半にかけて国司の交替制度を 整備し、任国に赴任する国司の最上席者(守が)に、大きな権限と責任 を負わせるようにした。 交替の際に一国の財産などを引き継ぐことから やがて(受領)と呼ばれるようになった。 Cinnamoroll <受領> Dolly Mix 有力農民(田堵)に田地の 耕作を請け負わせ、税として すこ ・・・公正の利稲とを あわせた官物・雑径に由来し本 来は力役である臨時雑役を 課すようになった C ・課税の対象となる団地:(名) 「徴税単位 (名)と呼ばれる請負人の名がつけられた。 戸籍に記載された成人男性を中心に 課税する体制 ↓ 土地を基礎に受領が負名から 徴税する体制へ。 この時の 成人男性の年齢 12~16(平民) 女性…13 PHSANRIO CO., LTD. ・受領は郡の任命権を握って駆使するように なり、加えて自ら率いていった郎等たちを強力に 指揮しながら徴税を実現し、自らの収入を確保 &国家の財政を支える。 ①受領が勤務する国衙や居宅 である館は、以前よりも重要 な役割をもつようになり、 そ の一方で、これまで地方支配 を直接担ってきた郡家 (郡衙 ) の役割は衰えていった。 ぐうぐんが、
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No. Date C 0 〇受領以外の国司 ・実務から排除されるようになり、赴任せずに、国司としての収入のみを 受け取ること(任)も盛んになった。「 ○○受領の一部 151 ・巨利を得ようとする強欲な者もおり、 郡司や有力農民からしばしば暴政を ○ 訴えられた。 ・語句 おわりのくにぐんじ 988年の「尾張国郡司 「百姓等解」 ひゃくしょうらげ もとなが によって藤原元命が訴えられた。 永延二年十一月八日 官職をもつ者。官職はもたないが位階をもっている者。 息利七万三八六三東 (利率三割)が定例とある。 位に応じて 願書。 定例の出。省略した部分に正二四万六一一〇東、 この時代には公民のこと。上申する文書の形式。嘆 (漢文) 散位の類、同じき不善のを引率するの事。 ……守元命朝臣、京より下向する度毎に、有官、 郡司百姓等 十二万九千三百七十四四一分の事。 せる正四十三万千二百四十八束が息利の 外に三箇年の収納、暗に以てか徴 国の政 ―尾張国郡司百姓等解。 三十一条の 三箇年の内に責め取る非法の官物井せて行法 裁断せられむことを請ふ、当国の守藤原朝臣元命、 尾張国郡司百姓 等解し申し請ふ官裁の事 C(成功):私財を出して朝廷儀式の運営や寺社の造営などを請け負い、 じょうこう ちょうにん その代償として官職に任じてもらう 重任):収入の多い官職に再任してもらう ○○11世紀後半 ②受領が赴任していない時の 国衙を、留守所と呼ぶ。 0 . 受領も交替時以外は国に行かず、かわりに(目代)を留守所に派遣し、 ・その国の有力者が世襲に任じられる(在庁官人)を指揮して政治を行わせる。 <荘園の発達> (公領 国衛とは 国司の治める地域 ・(開発領主):国衛から臨時雑役などを免除されて一定の領域を C 開発する者。 11世紀後半頃。 国司の子孫や地方豪族 国衛からの干渉を免れるために、所領を含む広大な土地を貴族や大寺社に 奇進し、その権威を背景に政府から宮物や臨時雑役の免除(不輸)を 認めてもらう 荘園(宮省符荘)にして、自らは預所や かんしょうしょう ③ 下司などの(荘官)となる者も現れた。 KOKL みんぶ しょう 政府の出した太政官符や 民部省符によって税の免除 が認められた荘園を省 と呼び、地方支配を強化した 受領によって独自に免除を認 められた荘園を国免荘と呼 んだ。 こくめんのしょう 38
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No. Date 語句 (領家):寄進を受けた荘園領主 (本家):荘園がさらに摂関家や天皇家などに重ねて奇進された時の 上級の領主 有寺社が寄進を受けて →こうしてできた荘園…(寄進地系荘園) 成立させた小さな規模の寺社領 荘園がたくさん生まれた。 ・不輪の範囲や対象をめぐる荘園側と国衛との対立が激しくなると、 荘園領主の権威を利用して、検田便など国衛の使者の立入りを認めない (不入)の特権を得る荘園も多くなっていった。 国内の耕作状況を調査し、 官物や臨時雑役の負担量を定 めるために派遣される使者。 受領は荘園を整理しようとしたが効果なし。 封戸とは 公務員の給料 ふこ 受領から中央に送られる税収が減少し、律令制で定められた封戸などの収入が 不安定になった天皇家や摂関家・大寺社は、積極的に寄進を受け、荘園の 拡大をはかる。 〔本家] 高陽院内親王 [領家〕 藤原実政--隆通 (順西) 進 保 〔開発領主〕--〔荘官〕 寿妙 中原高方 鹿子木の事 荘園の寄進 [補注〕 女。 藤原隆通の法名。 領家の収益。 鳥羽天皇の 主の代官職は職務とそれにともなう権益のこと。 下級官を指揮して現地を管理・支配する荘園領 二位藤原実政。ふつう預所は下司・公文などの 孫、中原高方。当時、大宰大弐であった従 肥後国(熊本県) 鹿子木荘。 在俗の僧。 寿妙 これ則本家の始めなり。 二百石を以て、高陽院内親王 に寄進す。 防がず、このに顆西、領家の得分 実政の末流願西 微力の間、国の乱 (東寺百合文書、原漢文) 進退職となる。 四百石を以て書き分ち、高方は家領 相伝の次第なり。 当寺の相承は、開発領主 妙 ために、実 を以て領家と号し、年 一寿妙の末流高方の時、権威を借らむが の権利を実態より大きく配している可能性が大き いる。そのためこの文書では、開発領主→荘官側 ように開発領主の権利を継承していると主張して この文書を伝えた東寺は、第一条に記されている
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No. ●押領使 追捕使はともに盗 Date <地方の反乱と武士の成長> 賊の追捕や内乱の鎮圧のため に派遣されるもので、いずれ も初めは臨時に任命されてい たが、しだいに諸国に常置さ れるようになった。 各地で紛争が発生 おうりょうし つぶし →鎮圧のために政府から押領使・追捕使に任じられた中・下級貴族の なかには、そのまま在庁官人などになって現地に残り、有力な(武士 (兵つわもの))となる者が現れた。 家子などの一族や郎等(郎党・部従)などの従者を率いて 争いを繰り返し、国司にも反抗した。 郎等とは 武士の家来。 連合体をつくるようになり、大きな(武士団)が成長し始めた。 特に東国(関東地方)では、良馬を産したため、機動力のある武士団の 成長が著しかった。 根をおろしていた たいらのまさかど しもうさ (桓武平氏)のうち、(平将門)は下総を根拠地にして一族と争いを 繰り返して、国司とも対立→939年:(平将門の乱) 平将門 Yes! Yes! Yes! しもつけこうずけ 常陸・下野・上野の 国府を攻め落とし、東国の大半を 占領して新皇と自称したが、同じ 東国の武士で将門の従兄弟の 平貞盛や藤原秀郷によって 討たれた。 POINT!!! ODISNEY 平将門の乱 + 藤原純友の乱 (天慶の乱) Hello Kitty is a 0076.15 SANRIO ・伊予の国司であった(藤原純友)も瀬戸内海の海賊を平定した際の 恩賞に対する不満から、逆に海賊と共に反乱をおこした。 →(藤原純友の乱) 大宰府を攻め落としたが、やがて 源経基によって討たれた うねもと KOKUYO LOOSE-LEAF 83686mm ruind x 36 Inp
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No' Da 「武士の家の構造 主人 家子 家子 家子 武士の家は主人 を中心に形成さ れた。 主人のも とには家子が従 っており、 家子 この乱の平定をきっかけに 平貞盛の子孫のように 郎等郎等郎等 げにん は郎等や下人・ しんじゅう 従を抱える ようになった。 源経基を祖とする(清和源氏)や つわもの 代々武名と武芸を継承する(兵の家)が <軍事貴族> 成立した。 〒人・所従 人・所従 八千人・所従 貴族は武士の実力を知る (侍)として奉仕させ、身近警護や都の警備を させた 摂津に土着していた清和源氏の源満仲とその子の みつなか いの ●館侍とは受領の家子郎 頼光・頼信兄弟 等からなる受領直属の武士た ちで、 国侍とは地方の武士を 藤原兼家・道長らに仕えて武力で奉仕 こくが 国衙の軍事力として組織した ものである。 <地方>たちざむらい くにざむらい &諸国の受領を歴任し、摂関家を支える。 ついぶし おうりょうし 武士を館侍や国侍として国司のもとに組織するとともに追捕使や押領便に 任命して治安維持を分担させる。 ~11世紀~ 武士 ・ 土着した貴族に従属して郎等になる • 在庁官人になって地方の武士団として 成長していった 三国として) ②1019 (寛仁3)年、 九州北部 と きったん を襲った刀伊(契丹の支配下 えんかいしゅう にあった沿海州地方に住む じょしんじん 女真人)の来襲の際には、 大 ざいのごんのそち たかいえ 宰権帥の藤原隆家の指揮の もと、 九州の武士たちがこれ を撃退した。 このことは、当 時の九州にも武士団がつくら れつつあったことを示してい る。 とうりょう 中央貴族の血筋を引く清和源氏や桓武平氏を(棟梁)と仰ぐようになり その結果源平両氏は地方武士団を広く組織し、大きな勢力をもつようになった。 かずさ ただね -1028年 上総で(平忠常の乱)がおこると、源頼信は房総半島に 広がった乱を鎮圧して、源氏の東国進出のきっかけをつくった。
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