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No. (元明) 天皇が (平城京)に Date 奈良時代~遷都してから長安京・平安京に遷都 するまで。 ・唐の都長安に20年に1度、(遣唐使)を派遣 日本は(冊封)は受けなかったが、実質的には朝貢であった。 →中国の皇帝が周辺諸国の君主に称号などをさすけ 国王に任ずること。 唐からの高級識物・楽器などが与えられたほか、 (吉備真備)や(玄昉)らの留学生や学問僧が儒教・仏教など多くの きびのまきび げんぼう 書物と知識を伝え、日本の律令国家を発展させた。 -遣唐使航路 | 渤海航路 じょうけいちゅうせん 渤海 上京竜泉府 698~826日 日本は朝鮮半島を統一した とうけい 東京 じゅん 五台山▲ 松原客院 (新羅)を従属国として扱おうとした ため、遣唐使の航路に影響があった。 北路 新羅 青州 4世紀半ば~935 らくよう 洛陽 金城口 日本 ロー 長安 べんしゅう 米州 しゅうしゅう 州 州 博 南路 618~907 こうしゅう 杭州 しゅう てんだいさん 明州 天台山 玖島で多 奄美島 あこなわ 東シナ海 阿児奈波島 ,500km ぼっかい また、7世紀末に中国東北部に建国された(渤海)は、唐・新羅と 対立していたことから、日本に従属するかたちをとった。 ほっけじ 法華寺 ひとい (もと藤原不比等部) 川産 しょうそういん あきしので 秋篠寺卍 一条北大路 (北京極) 卍 平城宮 一条南大路西大寺 大極殿明堂院 二条大路 ■長屋王邸 東大寺卍 卍興福寺 三条大路 四条大路 五条大路 六条大路 七条大路 八条大路 右 唐招提寺卍 薬師寺 卍 西市 京 川 [左] 京 藤原仲麻呂邸 元興寺 卍紀寺 京 大安寺' 寺卍 五坊大路 東市 城門 正倉院 きんかつどう 三月堂 かすがじんじゃ 春日神社 F ・710年、(元明)天皇は奈良の (平城京)に都を移した。 ・唐の(長安)にならってつくられた。 九条大路 (南京極) 四 富 銀 三坊大路 四坊大路 (東京) 一坊大路 二坊大路 一坊大路 一朱雀大路 二坊大路 一四坊大路 三大路
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No. Date 中央を南北に走る(朱雀大路)を中心に、基盤の目のように 東西南北に走る道路で整然と区画された →(条坊制) じょうぼうせい 京内には、貴族・官人・庶民たちの居住地区、立派な伽藍をもつ 寺院(薬師寺・興福寺など)もたてられた。 いちのつかさ 官営の(東市)・(西市)が設けられ、(市司)が管理した。 ・708年、年号を和同にしたことで、(和同開珎)を鋳造した。 711年、その流通を目指して(蓄銭叙位)を発したが失敗、 ちくせんじょいれい 蓄量に応じて位階を授ける ・中央と地方とを結ぶ交通制度として、 都を囲む(畿内)を中心に(七道)が整備され、約16kmごとに (駅家)を設けた。 うまや (路) 駅路と郡家を結ぶ道(伝路)が交通体系の網の目を構成 ・国司(一定の任期)が政治を行う拠点(国府)と郡司(任期はなく 地位は世襲)が政治を行う場(郡家) はやと ・東北地方に住む人々を(蝦夷)、九州南部の人々を(隼人)と呼び、 異民族(夷狄)として服従させ、支配地を拡大していった。 いてき ぬたりのさく いわふね 7世紀半ばに、日本海側に渟足柵・磐舟柵が設けられた。 斉明天皇の時代には(阿倍比羅夫)が遣わされ、蝦夷と関係を結んだ。 あべのひらふ でわこく 712年、日本海側に(出羽国)がおかれ、(秋田城)が築かれた。 太平洋側にも7世紀後半の城柵に続けて陸奥国府となる(多賀城)が 築かれた。 隼人は服属し、8世紀初めには(薩摩国)・(大隅国)がおかれ 政府に朝することが課された。 KOKUYO LOOSE-LEAF 835B 3
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No. Dale <藤原氏と天皇> 律令の制定に貢献した(藤原不比等) は娘の宮子を(文武)天皇に嫁がせ、 その子の皇太子(のちの(聖武天皇にも 娘の(光明子)を嫁がせて、天皇家と密 接な関係を築いた。 ・720年に不比等が死去すると、皇族の (長屋王)が右大臣となり実権を握った。 ながやおう むちまろ ふささき 不比等の子(武智麻呂) (房前)・ (宇合)・(麻呂)の4兄弟は うまかい 729年に自殺させ(長屋王の変)、 施皇子 平城 [天皇家〕 大友皇子―ローロー 三船 2天武 親王 刑 大 入部津って 15] 14] 13 高市皇子 長屋王 親王淳仁(廃帝 草壁皇子 吉備内親王 元正 元明 武 聖武 藤原鎌足━不比等 宮子 孝謙(称徳) (北家) 南家 武智麻呂 ローロー -仲麻呂(恵美押勝) [藤原氏〕 (TAN) 40 広嗣 京家麻呂光明子ロー種籍 仲成 県犬養橘三千代 L 菓子 橘諸兄奈良麻呂 太字は天皇、 数字は皇位継承の順、丸囲み数字は女性天皇 光明子を皇后に立てることに成功。しかし、737年に流行した天然痘に よって4兄弟病死。 たちばなのもろえ 皇族出身の(橘諸兄)が政権を握ると、唐から帰国した(吉備真備)と (玄昉)が聖武天皇に信任されて活躍した。 ひろつぐ 740年、(藤原広嗣)が九州で反乱をおこした。(藤原広開の乱) くに がらきのみや →聖武天皇は、恭仁京・難波京・紫香楽宮へと都を移した。 ・社会的不安のもと、仏教を厚く信仰した聖武天皇は、仏教のもつ(鎮護国家)の 思想によって国家の安定をはかろうとし、741年に(国分寺建立の詔)を出した。 ・743年には近江の紫香楽宮で(大仏造立の詔)を出した。 みことのり 752年、東大寺につくられた大仏の開眼供養の儀式が盛大におこなわれた。
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No. Date C C (藤原仲麻呂)は光明皇太后と結んで政界で勢力をのばした。 橘諸兄の子(奈良麻呂)は仲麻呂を倒そうとするが、 逆に滅ぼされた。(橘奈良麻呂の変) えみのおしか ・淳仁天皇を即位させると(恵美押勝)の名を賜り、権力を独占し、 大政大臣にまでのぼり、唐を模倣した儒教的政策を進めた。 ・光明皇后が死去すると、孝謙太上天皇は僧(道鏡)を寵愛して 淳仁天皇と対立。 764年、押勝は挙兵したが滅ぼされた(恵美押勝の乱) 淳仁天皇は淡路に流され、孝謙太上天皇が重祚して(称徳天皇となった。 ・769年、称徳天皇は道鏡に皇位を ゆずろうとする事件がおこったが (和気清麻呂)らの行動で挫折。 わけのきょま 3 (称徳天皇の死後、道鏡は C 下野薬師寺の別当として追放された。 ・藤原北家の藤原永手や武家の藤原 (石川)がはかって、長く続いた天武 720.8 8世紀の政情 (月は陰暦による) 藤原不比等、 死去 うだいじん 721.1 長屋王、 右大臣となる 724.2 長屋王、左大臣となる 729.2 長屋王の変 8 光明子、 皇后となる まろ 734.1 藤原武智麻呂、 右大臣となる |737. 疫病流行、 武智麻呂ら4兄弟死去 738. 1 橘諸兄、 右大臣となる 740. 9 藤原広嗣の乱 12 背の恭仁京に遷都 745.5 平城京へ戻る 757. 7 橘奈良麻呂の変 760.1 藤原仲麻呂、 大師となる 道鏡、 孝謙太上天皇の病気治療 C 天皇系の皇統にかわって天智天皇の 孫である(光仁天皇を立てた。 |761. 764. 9 恵美押勝 (藤原仲麻呂 ) の乱 C 765. 閏10 道鏡 太政大臣禅師となる 769. 9 宇佐八幡神託事件 770.8 道鏡を下野に追放 KOKUYO LOOSE-LEAF -8368 min d38 ed
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No. Date 0 〈民衆と土地政策> ほったてばしら ・竪穴住居にかわって平地式の(掘立柱住居)が普及した。 つまどいこん ・結婚は男性が女性の家に通う(妻問婚)に始まり、夫婦として いずれかの父母のもとで生活し、やがて自らの家をもった。 結婚しても別姓のままで、各々自分の財産をもっていた。女性の発言が 強かった。 ・農民は、班給された口分田以外に(柴田)や寺社・貴族の土地を 1年のあいだ借り、収穫の(5)分の1を地子として政府や寺社・貴族に おさめた(賃組)。 フーミンA 天候不順や虫などの 影響で飢饉もおこりやすかった。 →口分田を捨てて戸籍に登録された地を離れる(浮浪)や、 都の造営工事現場などから行方不明になる(逃亡)が 増えた。 ・人口増加による口分田の不足を補い、さらなる税の増収をはかった。 ちょうぶ 722年:百万町歩の開墾計画 →農民に食料・道具を支給し、10日間開墾に従事させて 良田を開こうとした。失 723年:(三世一身法)さんがい →新たに灌漑施設を設けて未開地を開墾した場合は 3世にわたり、旧来の灌漑施設を利用して開墾した 場合は本人1代のあいだ田地の保有を認めるもの。
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No. Date んでんえいねんざいほう 743年(墾田永年私財法) →開墾した田地の私有を永年にわたって保障。 墾田は祖をおさめるべき輸租田であった。 政府の掌握する田地を墾田にまで拡大することにより 土地支配の強化をはかる積極的な政策であったが、 一方で貴族・寺院や地方豪族らの私有拡大を進めることになった。 しょうえん ・(初期荘園):東大寺などの大寺院が広大な原野を独占し、国司や 郡司の協力のもとに付近の一般農民や浮浪人らを使用して 灌漑施設をつくり、大規模な原野の開墾を行ったこと。 経営拠点の荘所を中心に、国司・郡司の律令制支配機構に依存して 営まれたが、独自の荘民をもたなかったため、郡司の弱体化にともない 衰退していった。 調・庸に品質の悪化や滞納多 <国家の文化> (白鳳文化): 仏教文化を基調とした生気ある若々しい文化で、7世紀 後半から8世紀初頭にかけての唐の影響を受けた文化。 ①興福寺仏頭(彫刻)・・・おおらかな表情 ②法隆寺金堂壁画(絵画)…インドや西域の影響 ③高松塚古墳壁画・中国や朝鮮の影響 興福寺仏頭もと山田寺にあ にょらい そがのくらやま った薬師如来像で、 蘇我倉山 だのいしかわのま 田石川麻呂の霊をとむらう ため685年につくられたが、 火災にあい、 頭部だけが残っ た。 (高さ98.3cm、 奈良県) たかまつづかこふん せっかん しっくい 高松塚古墳壁画 石棺式石室内壁の漆喰の上に彩色された壁画。 男性 =群像・女性群像のほか四神 星宿が描かれている。 唐や高句麗の影響 せいしゅく あすか こう くり が指摘されている。 (西壁、 国 〈文部科学省所管〉、 明日香村教育委員会、奈良県) KOKUYO LOOSE-LEAF -836B 6 mm ruled x 30 lines
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No. Date ・貴族や地方豪族は漢字文化と儒教思想の受容が進んだ。 ・(天平文化):全国の富が中央に集められ、平城京を中心として 高度な貴族文化。 外来文化の影響を強く受けた国際色豊かな文化。 ・712年:(古事記) ひえだのあれ おおのやすます →天武天皇が(稗田阿礼)によみならわせた内容を(太安万侶)が 筆録(当時はよみだけできる人と書きだけできる人が多かった)したもの。 神話・伝承や推古天皇に至るまでの歴史を、漢字の音・訓を用いた 日本語文で記している。 720年:(日本書紀) →( 親)が中心となって編纂したもので、中国の歴史書の体裁を ふまえた漢文の編年体で書かれている。 ※中国の歴史書はおもに「本紀」や「列伝」などで構成される紀伝体 年代順で記す 神代から持統天皇に至るまでの神話・伝承・歴史が天皇中心に 記された。 →> 「日本書紀」のあと ・「続日本紀」→「日本後紀」→「続日本後紀」 →「日本文徳天皇実録」→「日本三代実録」が編纂された。 これら6つの漢文正史を(「六国史」)という。 713年:(風土記) →郷土の産物、地名の由来、古老の伝承などを筆録させる。 国ごとの かいふうそう 751年(懐風藻) →現存最古の漢詩集。大友皇子・大津皇子・長屋王らによる 7世紀後半以来の漢詩。
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No. Date 0 C おうみのみふね いそのかみのやかつぐ 8世紀半ばからの漢詩文の文人は淡海三船や石上宅嗣ら。 ・(「万葉集」):759年までの歌約4500首を収録した歌集。 宮廷の歌人や貴族だけでなく、東国の民衆たちがよんだ (東歌)や(防人歌)などもある。 あずまうた ●歌人としては、第1期(笑 ありま 智天皇時代まで)の有間皇 ぬかたのおおきみ 子・額田王 第2期 (平城 かきのもとのひと 京遷都まで)の柿本人麻呂、 第3期(天平年間 <729~749 やまのおく 年〉の初め頃まで)の山上憶 やまべのあかひと おおとものたびと 良山部赤人 大伴旅人、 じゅんにん 第4期 (淳仁天皇時代まで) やからち さかのうえのいらつめ の大伴家持 大伴坂上郎女 らが名高い。 編者は大伴家持 ともいわれるが、 未詳である。 <国家仏教の展開> さきもりうた 教育機関 ・官人養成のために(大学)、地方では国ごとに (国学)がおかれた。 ・大学には、貴族の子弟や朝廷に文筆で 仕えてきた氏族の子弟、 国学では、郡司の子弟らが優先的に入学。 ・仏教によって国家の安定をはかるという (鎮護国家)の思想 きょうえき 1 大学の教科は、 五経 ( きょう しょうしょ しきょう しゅんじゅう 経尚書・詩経・春秋・ じゅきょう 礼記) などの儒教の経典を学 みょうぎょう つりょう ぶ明経道、律令などの法 律を学ぶ、箸・箸・ ○奈良の大寺院では、インドや中国で生まれた様々な葬などの講道があり、のち 世紀には漢文・歴史を学ぶ紀 おん 伝道が生まれた。 ほかに、 陰 C 仏教理論の研究が進められ、三論・成実・ 法相・倶舎・華厳・律の でんとう じょうじつ ほっそう くしゃ 暦・天文・医などの諸 学が各役所で教授された。 れき てんもん (南都六宗)と呼ばれる学系が形成された。 えん げんぼう ぎょうき ろうべん ・法相宗の義淵は(玄昉)・(行基)ら多くの弟子を育て、華厳宗の良弁は 唐・新羅の僧から教えを学び、東大寺の建立に活躍した。三論宗を 伝えた道慈は大安寺建立などの事業に活躍。 当時の僧は宗教者であるだけでなく、最新の文化を 身につけた知識人でもあった。 KOKUYO LOOSE-LEAF ノ-83686mmniledxes Min
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No. Date ・日本への渡航にたびたび失敗しながら、ついに日本に 戒律を伝えた唐の(鑑人)らの活動も、日本の仏教 発展に大きく寄与。のちに(唐招提寺)を開いた。 来 ・仏教は政府からきびしく統制を受け、僧の 活動も寺院内のみだった。 した。 但 行基のように、民衆への布教を行い、多くの 民衆から支持された僧もいた。 ・仏教が日本に根づく過程では、(現世利益)を求める手段とされた。 しんぶつしゅうごう ・仏と神は本来同一であるとする(神仏習合)思想がおこった。 <天平の美術> 建築:寺院や宮殿に礎石・瓦を用いた壮大な建物が建てられた。 ① 唐招提寺講堂 ③ 唐招提寺金堂 ②東大寺法華堂 ④ 正倉院宝庫 ・彫刻:表情豊かで調和のとれた仏像が多く、以前からの金銅像や 木像のほかに、木を芯として粘土を塗り固めた(塑像)や、 原型の上に麻布を幾重にも漆で塗り固め、そそら あとで原型を抜きとる(乾漆像)の技法が発達。 くうけんじゅくかんのんぞう ② ①不空羂索観音像 ② 興福寺の八部衆像(阿修羅像を含む) ①①日光・月光菩薩像 ②執金剛神像 しゅごんごうしんぞう
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No. Date ・絵画 ちょうもうりゅうじょびょうぶ ①(正倉院)に伝わる鳥毛立女屏風の樹下美人図]唐の影響を受けた きちじょうてんぞう ②(薬師寺)に伝わる吉祥天像 豊満で華麗な表現 が特徴。 • 工芸品:正倉院宝物有明) 服飾・調度品・楽器・武器など らでんしたんのごげんびわ ① 螺鈿紫檀五絃琵琶 ③白瑠璃碗 しっこへい ②漆胡瓶 →よく保存された優品が多く、店ばかりでなく西アジアや南アジアとの 交流を示すものがみられ、当時の宮廷生活の文化的水準の高さと 国際性がうかがえる。 ○ ・称徳天皇が恵美押勝の乱後つくらせた C だらに ①木造小塔の百万塔と、その中におさめられた百万塔陀羅尼がある。 正倉院宝庫 かつての東大寺の倉庫の1つ。 右より北中南の3つの倉にわかれ、聖武 太上天皇の遺品や正倉院文書などをおさめて いた。 三角材を井桁に積み上げた校倉造がみ たかゆか かいひ あぜくらづくり られ、 高床式の構造をもつ。 開扉には天皇の ちょくふう 許可がいる 「勅封」 の倉であった。 (奈良県) 螺鈿紫檀五絃琵琶 ラクダに乗った さいいき こじん 西域の胡人が描かれている。 現存最古の印刷物 〇蝦夷(東北地方)の歴史 ○ (正倉院宝物、 全長108.1cm、 幅30.9cm、 奈良県 ) 17世紀半ば/日本海側に渟足柵・ 磐舟柵が設けられた。 斉明天皇時代/阿倍比羅夫が遣派 される。 712年/出羽国がおかれ、秋田城が 築かれる。 780年/伊治呰麻呂が反乱をおこす 789年/阿弖流為の活躍により 政府軍が大敗 802年1征夷大将軍となった坂上田村 麻呂は胆沢城を築いた。
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