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日本史 高校生

5番教えてください!

たんか と勿れ」、石川啄木の詩歌など 俳句・短歌の革新運動 ( 15 )らによる展開 14 与謝野晶子 15 正岡子規 しきもんか きょ 子規門下の高浜虚子が俳句雑誌 『ホトトギス」 (1897) を主宰 ちお たかし 子規門下の伊藤左千夫、 長塚節が短歌雑誌 『アララギ」創刊(1908) 日露戦争前後の文壇 (16)主義: 人間社会の暗部をありのまま描写 →日露戦争前後、文壇の主流に くにきだとっぽ はかい ふとん 16 自然 しゅう 17 □ 島崎藤村 a 小説: ( 17 ) 『破戒』 (18) 『蒲団』、 国木田独歩 『武蔵野』、 徳田秋 せいかび 声 『黴』 b 詩歌 ( 19 ) 『一握の砂』 (1910)、社会主義思想を盛り込んだ生活詩 いちあく すな * 啄木の論評 『時代閉塞の現状』 →日露戦争後の国家権力を批判 そうせき (2) 反自然主義: 知識人の内面を国家社会との関係から描写した夏目漱石の作 18 田山花袋 19 石川啄木 おうがい 品群や、森鷗外の歴史小説 明治の芸術 教 p.291~ 演劇界の動向 (1)歌舞伎 ざんぎりもの だんじゅうろう a 明治初期: ( )が散切物 (明治初期の風俗 世相を題材)を上演 明治中期: 「(2)」と称する、 明治期の歌舞伎黄金時代の到来 かぶ 1 河竹黙阿弥 2回菊佐時代 市川団十郎 (9代目)、 尾上菊五郎(5代目)、 市川左団次 (初 おのえきくごろう さだんじ 代)の活躍 おとじろう (2)(3):川上音二郎の民権思想を含んだ壮士芝居や「オッペケペー節」によ る政治風刺、通俗小説の劇化など 3) ( 4 ) 近代の西洋劇を翻訳、上演→歌舞伎・新派劇に対する呼称 そうし しばい 3 新派劇 しんば 4 新劇 ほうげつ a ( 5 ) 坪内逍遙 島村抱月 松井須磨子らで結成、 「人形の家』 などを 上演 5 おさないかおる b (6): 小山内薫 2代目市川左団次が結成、翻訳劇など上演 西洋音楽の導入 : 軍楽隊による演奏により導入開始 6 自由劇場 ■ ( 7 )らが、 小学校教育の唱歌に西洋歌謡を模した楽曲を導入 しゅうじ [伊沢修二 ■) ( 8 )設立(1887): 専門的な音楽教育の開始、 初代校長伊沢 修二→卒業 8 東京音学 こうじょう 生に、 『荒城の月」の( 9 )らを輩出 9 滝廉太郎 日本美術と西洋画の相克 10 美術 明治初期: 政府が ( 10 ) を開設(1876) a フォンタネージ(イタリア)らをまねき、 外国人教師による西洋美術の指導 2 近代文化の発

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現代文 高校生

高校生現代文の学習課題集です! 空白の部分の回答を教えて欲しいです🙇‍♀️

今にも人々にお告にを隠し 衣の袖を涙でぬらしているように見える。 エ葛の花は馬が踏んだらしい。 馬に乗って旅する人は、うらやま しいかぎりであるなあ。 オ 葛の花が踏まれ、まだその色も新しい。近くに住む人 がこうして秋の風情を楽しんでいるのだ。 むらやま 6 山の松の木むらに、日はあたりひそけきかもよ。 旅びとの墓」 の歌について、次の問いに答えよ。 1 何句切れの歌か。 学習の手引き② 句切れ ② この「旅びと」は、どのような状況に置かれた人であったと思わ れるか。「墓」に入るまでの経緯を踏まえ、三〇字以内で答えよ。 H 山道で 場に葬られた人 7 「野に捨てた黒い手袋も起きあがり指指に黄な花咲かせだす」 の歌に、 ついて、「手袋も起きあがり」とは、どのような様子を詠んだものか。 四五字以内で答えよ。 牡丹花は―短歌抄 ⑧ 「白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼を開き居り」の歌 について、作者は、この「うさぎ」からどのようなことを感じてい るか。次の中から適当なものを一つ選べ。 アわざわざ猟師の前に出てきて撃たれるとは、なんと愚かなうさ ぎであろうかということ。 イ死んでも眼を見開いているとは、本当に突然に奪われた命であ ったのだなあということ。 ウ 白い雪の上に眼を見開いて倒れているとは、なんと美しい死に 方であろうかということ。 このうさぎが平和な暮らしを突然奪われたように、自分もいつ かは殺されるのだということ。 オなんの罪もないうさぎを撃ち殺し、しかも放置するとは、なん と残虐な猟師であろうかということ。 がか 「日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも」の歌に ついて、次の問いに答えよ。 1 この句に見られる表現技法として、適当なものには○を、そうで ないものには×をつけよ。 ア 体言止め イ 倒置法 ウ句またがり HH SEK オ序詞 カ直喩 ア イ ウ オ ② 「脱出したし」とあるが、それはなぜか。 「皇帝ペンギン」と ② 「飼育係り」の心情を考え、それぞれ四〇字以内で答えよ。なお、 ②については、戦後の日本の社会状況を踏まえて考えよ。 5 3 H 力

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古文 高校生

模試で古今著聞集を解いたのですが文章で出てくる位がよくわからないです。 中納言と右大弁は兼任できるのですか。 正三位と中納言はどちらの方が偉いのですか。 なぜ正三位になったら左大弁になれないのですか。 誰かお願いします😭😭

選択肢】 冒頭に「歌合せでは」とあって、歌合せの場合だけに限定してい が正しいとすると、「歌合せ」以外の場では歌の表現に注意しなくてもよいと になってしまおう。 ここでは、話題を「神の前で詠む和歌」に限定しているのが不適。【文章Ⅰ】 の前で詠む和歌」の作法は話題になっていない。 ②と同じく、話題を「歌合せ」に限定しているのが不適。 は⑩。 したように、【文章Ⅰ】の主題は、「和歌を詠むときには、その和歌の内容が の前に かもしれないので、その表現に注意しなければならない」ということであっ を踏まえて、浜の南の宮が焼けたことと、生徒Aの発言中の 南の宮作り改めてけり夜半の白雪」という表現は、本当は雪が降って浜の 段と違って見えるということを詠んだだけだけど」 とあることから解いてい る。 「浜の南の宮作り改めてけり夜半の白雪」は雪の降った翌朝の景色が普 と詠んだのだが、「作り改めてけり」が浜の南の宮が焼失して作り直すこ を暗示する表現になっていたために、本当に火事になってしまったという話 前の実綱の国の歌で述べたことを補強している。 以上を踏まえると、「浜 が近い将来作り直されることを暗示するような表現」が正解と判断される。 「涙の南の宮の改修は神の望みである」、③「浜の南の宮がどんな災害をも回避す ⑨「浜の南の宮の修理は順調に進行する」は、「文章Ⅰ】 の本文にそれと相当す 実守中納言は、宰相の中将でいらっしゃったが、東宮坊に勤めたことに対する賞で 正三位に昇進なさったので、 実綱は)左大弁になる順番を追い越されてしまった。「こ の歌のせいだろうか」と、当時の人々は噂しあっていたということだ。 本当に詩歌の道 はよくよく考えなければならないことである。昔もこのような例はたくさんあったので しょうか。 同じ広田神社)歌合せで、「社頭の雪」という題の歌) 女房の佐が詠みました 歌は、 今朝見ると、浜の南の宮を作り直してしまったのだなあ。 夜半の雪によって。 この歌が詠まれた)後、再び浜の南の宮は焼けておしまいになった。 これも歌の徴候 が現れたものだろうか。 あの実績の中納言は、弟の実房・実国などに官位を) 追い越されなさったときは、 どうして私たち一族は序列が乱れているのだろうか。 羨ましいのは(列を乱 さないで飛ぶ) 秋の雁たちだ。 このようにお読みになったのは、たいそう殊勝なことで、恨みはそのように深かっただ ろうが、誠信が、弟の斉信に追い越されて、目の前で悪行の報いで死後に苦悩の世界に 赴くことを心に決めて恨み死にをなさったのとは似ていないだろうか。 【文章】 斉信民部卿が宰相の当時、才能が人より) 優れていることによって、兄の誠信の君 を追い越して、 中納言におなりになったので、 誠信は、我が身の失態を忘れて、目の前 の恨みに耐えられないで口惜しいとお思いになったのだろうか、七日目の日に、恨み死 にでお亡くなりになった。 (誠信は) 手を握ってお亡くなりになったが、恨みの) 心が 強かったからだろうか、指の爪が、 みな甲へと突き抜けていたということだ。 弟に官位を追い越されることは、帝王や、臣下をはじめとして、その例は少なく ない。 直ちに、これほどまでのことがあるだろうか(いやない) と、 恐ろしく思えるこ 三条内大臣公教会のご子息である、 実綱中納言は、弟の君達である、 実房、 実国など に追い越されて、 どうして私たち一族はこのよう (に序列が乱れているのだろうか。羨ましいのは (列を乱さないで飛ぶ) 秋の雁たちだ。 などとお休みになったとかいうことも、実綱の) 恨みはたいそう深くお感じになって いたのだろうが、このようなこと(=誠信のように恨み死にをすることはなかった。 誠信が目の前の現世)における悪行の報いで死後に苦悩の世界に赴く報いを実感な とだ。 +2 ●現代語訳 【文章Ⅰ】 同じ(承安二年、この(二年前の住吉大社の)歌合せの行事を広田大明神が、海の 上から羨ましくお思いになっているということを、二、三人が同じように夢として見申 し上げた。 道因がそのことを聞いて、また(二年前と同じように)人々の歌を請い求め 歌合せを開催した。歌合せの題は、「社頭の雪」「海上の眺望」「述懐」が、このよう <= 人々の歌を請い求めての歌合せ〉であった。これ<=この歌合せ>も藤原俊成が判者を つとめた。「述懐」の歌に、二条中納言実綱卿が左大弁のとき、宰相の教長入道と歌合 の相手として組み合わせて、 のりなが 「位山を上る」という「上る」ではないが、位が上がれば人に追い越されてしま う我が身であるよ。(古歌に「最上川のぼればくだる」とあるが、私は) 最上川 を漕ぐ舟ではないのになあ。 その 実綱)は、四位・五位だった期間は重要な役職を経験することなく、弟たち二 人に位階を追い越されて哀れな境遇になっておられたが、仁安元年十一月八日、蔵 人の頭に任命されて、 同じ (仁安) 二年二月十一日、参議に就任して右大弁を兼任した。 同じ(仁安) 三年八月四日、従三位に就任した。 嘉応二年正月十八日、左大弁に転じた。 昔の哀れな境遇のとき)の恨みも解消するくらいに、このように次々と続いて昇進な さっていたのに、この歌<=「位山のぼればくだる..…」 の歌〉をお詠みになったのは どのようにお思いになったからだろうか。こうしている間に、同じ(承安) 三年正月六 さったというのは、本当につまらないことと思われる。 顕基中納言が、いつも「罪がないのに流罪になって)、配所の月を見たかったなあ」 とおっしゃっていた状況には(誠信の死に方は) 似ていらっしゃらなかった <=違って いらっしゃった〉。 実に適切な仏道に人を導いてくれる機縁となる物事に出合えていな がら、(誠信が命を落としてしまったのは、無意味なことではないか。 これだけではなく、寛算が死後悪霊となり (祟りをなしたことや)、清和天皇が、前 世で、法華経転読の功徳を自らの極楽往生のために用いないで、伴善男に対する復讐 のために用いることを誓って死んだ (こと) は、恨みが深いためである。 ともよしお ふくしゅう

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日本史 高校生

教えてください🙏

の法の醍皇 三皇 2- 官 要 白 t 本 滋 床 L. た ●国風文化 次の文の空欄にあてはまる語句を答えよ。 遣唐使の廃止後,これまでの大陸文化と貴族文化が融合して, 日本の風土に合った国風文化 が誕生した。 国風文化の象徴であるかな文字は、 万葉がなの草書体を簡略化した ( 11 )ゃ, 20 きんちょう 漢字の一部分である ( 12 ) が日常生活で使用されて, 多くの文学作品が生まれた。 和歌は, 最初の勅撰和歌集である 「古今和歌集」 が編纂され, 古今調の歌風は後世の和歌の模範となった。 この歌集の歌人である紀貫之は,最初のかな日記である ( 13 ) を記し, また藤原道綱の きのつらゆき みちつな たかすえむすめ じんてきかいそうろく しょう し 母が自らの家庭生活を記した( 14 ) や,菅原孝標の女が自伝的回想録を記した( 15 ) のように、女性によるかな日記も誕生した。 かな物語では、最古の物語文学である(16)や、 短編の歌物語集である「伊勢物語」があった。また、中宮彰子に仕えた紫式部の(17) ( 18 ) が皇后定子に仕えた宮廷生活での体験を随筆風に描いた『枕草子」は,国文 学の最高傑作とされている。 藤原道長の栄華を描いた「栄華物語」の歴史物語もあった。この ように、かな文学は教養豊かな女官(女房)によって隆盛した一方で,貴族は公の場では漢字 を使用したが、藤原道長の日記 ( 19 ) のように,その文章は和風的な漢文であった。 かじきとう げんぜりゃ この時期の仏教は,加持祈疇により現世利益を追求する貴族と天台・真言宗が強く結びつい ほん じ すいじゃくせつ ごりょうえ 61% ていた一方、神仏習合の考えである本地垂迹説の思想も盛んとなり、御霊会も盛んに催さ くうや れた。これと同様に浄土教も流行し、10世紀半ばに空也が京の市で説いたのちに(20) おうじょうようしゅう ねんぶつ が 「往生要集」で念仏往生を説くことで貴族・民衆の間に流行した。さらに、末法思想によっ まっぽう しそう て浄土信仰はいっそう広まり、来世で救われたいと考える人々が増加した。ほかにも、経典 きょうづつ きょうづか を写経して経筒に入れて地中に埋める経塚も営まれた。 また, B しんでんづくり 美術工芸の作品も国風化の影響を受けており,寝殿造とい すまびょう う日本風の建築様式が使用された貴族の住宅内部は、襖や屏 まきえ らでん 風に d 大和絵が描かれた。 また, 蒔絵や螺鈿の手法を使用し さんせぎ た調度品も屋内に飾られ, 書道では三蹟と呼ばれる和様の名手の作品も重宝した。 藤原道長の ゅんじゅう らいこう ず が臨終の人を極楽浄土へ迎えに来る場面を描いた。 来迎図も多く描かれた。 ほうじょうじ びょうどういんほうおうどう どう 法成寺や図 B の平等院鳳凰堂は,浄土教が影響した阿弥陀堂の遺構である。 また、阿弥陀仏 げんぶく 貴族は10~15歳で男性は元服し、女性は裳着の式をあ しゅっし そくたい 上げて成人し、男性は官職を得て朝廷に出仕して、年中行事 などに奉仕した。 その際, 貴族男性は図Cの束帯や簡素化 した 女性は図Dの安房装業(十二単を正装とした。 一 小 一人 ・唐衣 19 一表者 藤原冬嗣を筆頭に北家が勢力をのばし、(1) 基経は,他氏排斥により摂政・関白の 地位を高めた。その後醍醐・村上天皇による親政が行われたが, 安和の変後に藤原忠平 が摂関政治を行い、藤原道長 頼通父子の時に最盛期を迎えた。外交では,唐滅亡後に建 国した宋や、中国東北部の ( 9 ) 朝鮮半島の (10)と国交を結ぶことはなかった。 Check Point - → がくるという説。 彼らの多くは左京に住んで常に在京し、食事は1日に2回 を限度として, その日の行動を吉凶によって決定するといった日常生活をおくったのである。 本地垂迹説 仏 (=本地)が人々を救 済するため, 神という仮 の姿となってこの世に現 れたとする思想。 御霊会 なぐさ 政治的に非業の死を遂げ た人の霊を慰める行事が. のちに疫病の流行を防ぐ 目的に変化した祭礼。 浄土教 阿弥陀仏を信仰し、来世 において極楽浄土に往生 し、そこで悟りを得て苦 をなくす教え。 末法思想 しゃか 釈迦の死後に、正法・像 法の時代を経て末法の世 ぽっぽう 貴族の住宅用建築様式で、 寝殿を中心に東対・北対・ 東北対が透渡殿・渡殿で 接続された。 わたどの 蒔絵 漆で描いた模様に、 金粉・ 銀粉を蒔きつける技法。 しんじゅこう 貝殻の真珠光を加工して 漆器に埋め込む技法。 おののみちかぜ THRE 小野道風・藤原佐理・藤 原行成の3人の名手。 なり 「藤原頼通が木造 宇治に建 立内部に じょうちょう。 仏師定朝 せり みだにょらいそう が寄木造で つくった阿弥陀如来像が 安置された。 宮中で毎年特定の時期に 行う神事・仏事 政務の 行事のこと。 問1 奈良・平安 問2 問3 問1 下線部aについて, この出来事を何というか。 問4 よししげのやすた 問2 下線部について、この両天皇の親政はのちに何と呼ばれてたたえられたか。 問3 下線部の人々のうち、往生をとげた人物の伝記を集めた, 慶滋保胤の著書は何か。問5 問4 下線部dについて、大和絵の名手であった平安時代前期の宮廷画家は誰か。 問6 問5 下線部eについて。 高野山が所蔵する阿弥陀如来と諸尊32体の来迎図を何というか。 問6 下線部fのうち吉凶により引きこもったり、凶の方角を避ける行為はそれぞれ何か。 ポテンシャル日本史 23

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古文 高校生

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5 解答 3分 *道々しき (3) fil 115TH BA 古典速読トレーニング標準 次の文章を制限時間内に読んで、後の問いに答えなさい。 昔物深くも思ひわたらぬ人の世のこと心得顔に言へりけるは、「おほかたの世にもてはやされぬことは、そのわざ よからぬがゆゑなり」と、あながちにおしきはめて言はれたりけり。 世にはやるといふことどもを見開くに、道々しきにも、芸能にも、よきことのみ行はるるにはあらで、おほかたがなし やすく、まなびやすきことの、まづはやるなりけり。さりとて、また、悪しきことのみ行はるるといふにはあらず。 人の うたてがることはたよしといふにもあらず。 いたりてのわざは、まねやすからず、行ひがたしとは、昔々の人の言ひし ぞかし者といへども、昔ありしは、ひたすら実体にて頼もしかりしを、今はさる師は世にまれにて、詩文はなばなし く作りも、手など風流に書きすさび、酒をかしく酌みあそぶもとへは、人あまた集まれり。 仏の道にも、世にありがたき人は、山に籠もりて現れず、亭主ぶりよく、うときを訪らふ言葉にも、うれしと思はせ、 物きよく調じて食はせ、今の世の茶の湯もて呼び呼ばれ、よろづにあいぎやうづきたらんには、まづまうづるなり。 うぱらとても、さるかたに一たび参りては、若き人の遊所に通ひそめしにひとしく、 あはれ一日もおこたらじと思ひしむ るぞかし。 説経者といふも、尊き経文のこころを一筋に説き聞こゆるには、心もうつうつとして、ねぶりを誘ふのみなり とて声高くも あるひは衣の袖に涙をうち払ひ、または、眼を怒らしなどして、歌舞伎者のこなしをまねつつ、 の大和の物語も、詩歌の深きこころをも、おのがよくも心得ぬあまりに、得手勝手なるかたに説きこかし、また、こ ごろり世説の中にめざまし草なるまでとりまじくて、ひたすら興あらんとするなり。 < 「癇癖談」 > ・学問的なこと。 *うばら (10) お婆さん。 説きこかし (13) 調子に乗って解説して。 草 (14) 珍しい話。 めざまし 問本文では、今の世で「流行すること」と「流行しないこと」を、いくつの分野について具体的事例をあげて述べて いるか。 漢数字で答えなさい。 問二 作者の主張に合致するものを、 次から一つ選びなさい。 物事を深く理解していない人であっても、人としてやってよいことと悪いことの違いははっきりわかる。 イ 最高の極意は簡単に真似することができないので、なじみやすくおもしろいものばかりが人気を集める。 ウ 学問で名を上げたいと願う人は、漢詩をつくるのが得意で字を書くのも上手な先生に教えを請うとよい。 エ老人たちが山奥の寺に毎日通うことと、若者たちが遠くの遊廓に毎日通うことは本質的には同じである。 経文を説く際に歌舞伎や物語などの趣向を取り入れるのは、聴衆を飽きさせないおもしろい試みである。 正答率 くせの M

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古文 高校生

現代語訳を読んでもあんまり内容を掴めません、 もっとざっくり要約していただけませんか?

ここんちょもんじゅう 古文入門@ 「古今著聞集』〈巻第五和歌第六〉 は「経信卿」の行動 太字は活用する語 道山 西河 大井川| 内容を確認しようー ラ四·未 打消·用 過去·終一 劣ら ざり けり。 劣らなかった。 一文法詳解図 格助名 この人に この人(藤原公任)に 白河院が、 帥の民部卿経信卿、 帥の民部卿源経信卿は また また一 格助 格助 そ の道の人々 を その方面の(すぐれた)人々を 名 格助 バ下二·用接助 格助 詩歌管絃 の 三の 舟 を 浮かべ て 漢詩·和歌·管絃の三つの舟を一 * 談 に 行幸 の 時、 行幸なさった時、 浮かべて 白河院は一 ※接続助詞的用法。「~ので」という意味を表す。←」 格助 ナリ·用 (編者→白河院) 接助 サ下二·未 尊敬·用 過去体 接助 分かち て 乗せ られ ける に、 乗せなさったところ、 ことのほかに タ四·用一 経信卿 遅参 の 間 経信卿が定刻になっても参上しないので、 (白河院は)とりわけ 1から 分けて 経信卿が (編者→白河院) (編者→白河院) 経信卿は一 シク·用 過去·体 接助一 御気色 あしかり ける に、とばかり 待た れ て (経信卿は)三才(漢 夕四·未 尊敬·用接助 ラ四·用 完了·用過去·体 接助 参りたり ける が、三事 ご機嫌が 悪かったが、 しばらくお待ちになって、(ようやく経信卿が)参上したが、 詩,和歌·管絃)を ナ下二·用 存続·体 断定·用 接助 カ四·用一 格助 断定·用 接助 かね たる 人 に て、 みぎは に ひざまづき て、「やや、いづれ の 舟 にて かね たる 人に て、 兼ね備えた人で、 ひざまずいて やあやあどの舟であっても(いいから) ミ辺に 丁(経信卿→舟の遭ぎ手) (編者→経信卿) 係助サ下二·用 補ハ四·命 格助 も 寄せ候へ。」と、 潜ぎ寄せなさい。」と ハ四,未 尊敬用 完了·用 過去·体一 言は れ たり ける、 おっしゃったのは、 格助ラ四·用 接助 時 に とり て いみじかり けり。 当時にあって シク·用 過去·終一 すばらしかった。 →白河院)(編者→経信卿) サ変·未一 かく 言は ん れう に 遅参せ られ ける と ぞ。さて」 ハ四·未 鏡曲,体 (省略) 尊敬·用 過去·体 格助係助 |経信卿は一 このように言わんがために一 管絃 の 舟 に 乗り て 格助ラ四·用 接助 遅れて参上なさったということだ。 さて、(経信卿は)管絃の舟に 合2から 乗って 百河院に丁(編者」 →白河院)(編者→経信卿) \ サ変·未一 詩歌 を 漢詩と和歌を(白河院に)献上なさった。 尊敬·用 完了·用 過去·終 格助 ラ四·終 格助 係助 られ たり けり。三船 に 乗る と は これ なり。 断定·終 三船に乗る」とは このことである。 3 説話

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