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現代文 高校生

至急!! 高校三年生の国語なんですけど全く分からないので解答と解説を求めます。 画像1→ 2→ 3の順で見てください よろしくお願いします!

ふじはらたつ 藤原辰史「食を聴く」「孤食」という社会問題 ★次の文章を読んで、後の設問に答えよ。 食文化とは、人間のすべての感覚に訴えてくる総合的文化である。 2 味覚と嗅覚は言うまでもない。 お椀の味噌汁から漂う大豆発酵の香りと、味噌汁を口につけたときに広がる濃厚な味わい。 鼻と舌と いう器官は食の舞台では主役級だ。それ以外に、視覚、触覚、聴覚も深く関わる文化であることも、容易に理解できるだろう。一皿に 載せられた食べものの色彩と配置は絵画にたとえられるし、歯ごたえや舌触りという名詞は世のグルメ本には欠かせない。二日酔いの朝、 口に含んだ味噌汁は、まだ眠っている鼻腔の細胞を挑発し、舌の真ん中あたりの痛覚をも刺激したあと、喉の上方から吸収されてい。 くように、体に浸みわたる。 ③ ただ、聴覚については、ほかの感覚と比べて、これまでほとんど掘り下げられてこなかったように思うので、ここでは食と音につい 考えてみた 食の「音」が意識されるのはどんなときだろう。私にとって真っ先に思い浮かぶ音は、せんべいを砕くあの音である。 私の職場は、定期的に研究会を運営したり参加したりして、その道のエキスパートの話を聴き、知見を蓄え、研究報告書やシンポジ ウムというかたちで社会に還元することを主な職務としている。研究会は平均四時間、場合によっては五時間に及ぶことが多いので、 発表者や参加者がおやつや飲みものを持ってくることがある。 これを休憩時に食べるのが楽しみでもあるのだが、研究発表が三時間以上続くこともたびたびあって、そのときには小腹が減ってく るので、聴きながら食べることもある。研究会中にせんべいを食べる音は、部屋全体に響きわたる(と私は恐れる)。ので、できるだけ そのゆっくりと砕かれるせんべいの音が悪目立ちしてしまう(と私は恐れる)。しまったと口 B 音を立てないように砕くのだが、 それは私の食道と胃袋を傷つけて に含んだせんべいの行き場に自信を失った私は、悩む。このまま飲み込んでしまいたい。 やまないだろう。いっそのこと高速で噛み砕いてしまおうか。噛むべきか、噛まぬべきか悩む私がふと目をあげると、目の前の参加 者が、勇猛にもせんべいを噛み砕いていることに気づく。しかも破砕音があの独特のリズムを刻んで部屋に響いている。なんと勇敢な せんべいの戦士だろう。 D 生来気の弱い私は、勇敢な戦士の放つ音に紛れるように自分の口のせんべいを食べ切ることに成功するのである。私がこの間一言も 20 漏らさぬように真剣に報告を聴いていることは、名誉のために付け加えておきたい。 総じて静かな空間は、食べる行為が音を発する行為であることを思い起こさせてくれる。 箸が茶碗に当たる音。ナイフとフォークが 皿に当たる音。蕎麦をすする音。スープをすする音。キュウリの漬物を噛む音。 レンコンを噛む音。 肉を切り分ける音、骨についた肉 をしゃぶる音。ビールが食道を通る音。 バリボリ、カツカツ、コツコツ、ズズズズズ、 ギコギコ、シャキシャキ、ゴクリ。食卓は本来 さまざまな音に囲まれている。 胎児は、あるときから子宮のなかで音が聴こえるようになるという。産婦人科医の増﨑英明はこう述べている。 「子宮の中ってめちゃ めちゃやかましいんですよ。お母さんの心臓は子宮に接してますから、おそらく、ドッコンドッコンドッコンドッコンってずーっと聞 いてたら、たまらんですよ。 ノイローゼになる」(増崎英明・最相葉月 「胎児のはなし」)。ならば、母親が食べたものが、食道を通って、 胃や腸で揉まれる音も、心臓の鼓動の合間に、羊水の振動を通じてきっと聴いているのではないか、とこの一節を読んで考えた。他者 が食べる音は、生まれたばかりの赤ちゃんが母親の心臓の近くに置かれると泣き止むように、安らぎのようなものを与えるのではないか。 3 たとえ胃腸の音が心臓音で掻き消されているとしても、心臓の鼓動は、胎児の栄養を送る音だ。私は、ともに食べることが、単に複 数で食べること以上の何かをもたらす理由として、母親の胎内にいたときの「耳の体験」があるのだと考えている。 子宮のなかで母親 と一緒に食べていること。つまり、縁食の原型である。心臓の音を聴きながら、へその緒を通じて食べていることは、ともに食べるこ との原初的なかたちではないだろうか。 実際、食べる音は、歯にせよ、舌にせよ、喉にせよ、胃袋にせよ、腸にせよ、人間の体のなかが発する音である。食べる音は、本来、3 自分が動物として生まれてきたことをそっと私たちに再確認させる音だと言える。それはもっと多彩だったはずだ。 皮のついたリンゴを丸ごとかじる音は、切られたリンゴを食べる音よりも硬質で高い響きを持つ。氷を噛み砕く音は、かき氷を食べ 音よりも低音で岩を砕くように口腔内に轟く。一本のキュウリを噛み切る音は、刻まれたキュウリを食べる音よりも折れる感じが出 ていて爽快。焼き鳥の軟骨を噛み切るときの音は、わずかに歯が滑ったあとに、心地よい野蛮さを響かせる。 喉から胃袋にかけてその 通過の感覚が残り続けるのも軟骨のうまさである。トウモロコシをかじるとき、芯から実が外れる音はユニゾンを楽しめるし、とろろ ご飯を食べる音は蕎麦やうどんをすする音と似ていて、スピード感にあふれている。 39話を料理技術にまで広げてみると、食の音はさらにヴァラエティを増す。 心地よい音に思われる度合いが高いのは、まな板の上で野 菜を刻む音だろう。野菜そのものの音に刃が板に当たる音がダブって響いてくる。ダイコンやショウガをおろす音は大地を鳴らす重低 25

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現代文 高校生

2枚目P22ページの例えば、から何言ってるのかわかりません。 現代文得意な方詳しく説明願います

がした 可能 いわ * いや生全体に 二〇一七年度 第 次の文章を読んで、後の設問に答えよ。 与えられた困難を人間の力で解決しようとして営まれるテクノロジーには、問題を自ら作り出し、それをまた新たな技術の開発 によって解決しようとするというかたちで自己展開していく傾向が、本質的に宿っているように私には思われる。 科学技術によっ て産み落とされた環境破壊が、 それを取り戻すために、新たな技術を要請するといった事例は、およそ枚挙にいとまないし、感染 防止のためのワクチンに対してウィルスがタイセイを備えるようになり、新たな開発を強いられるといったことは、毎冬のよう に耳にする話である。東日本大震災の直後稼働を停止した浜岡原発に対して、中部電力が海抜二二メートルの防波堤を築くことに よって、「安全審査」を受けようとしているというニュースに接したときも、同じ思いがリフレインするとともに、こうした展開に はたして終わりがあるのだろうかという気がした。 技術開発の展開が無限に続くとは、たしかにいい切れない。 次のステージにな にが起こるのか、当の専門家自身が予測不可能なのだから、先のことは誰にも見えないというべきだろう。けれども科学技術の展 開には、人間の営みでありながら、有無をいわせず人間をどこまでも牽引していく不気味なところがある。いったいそれはなんで あり、世界と人間とのどういった関係に由来するのだろうか。 けんいん 医療技術の発展は、たとえば不妊という状態を、技術的克服の課題とみなし、人工受精という技術を開発してきた。その一つ体 外授精の場合、受精卵着床の確率を上げるために、排卵誘発剤を用い複数の卵子を採取し受精させたうえで子宮内に戻す、といっ たことが行なわれてきたが、これによって多胎妊娠の可能性も高くなった。 多胎妊娠は、母胎へのフィジカルな影響や出産後の経 済的なことなど、さまざまな負担を患者に強いるため、現在は子宮内に戻す受精卵の数を制限するようになっている。だが、この 制限によっても多胎の「リスク」は、自然妊娠の二倍と、なお完全にコントロールできたわけではないし、複数の受精卵からの選択、 また選択されなかった「もの」の「処理」などの問題は、依然として残る。 いろう いずれにせよ、こうした問題に関わる是非の判断は、技術そのものによって解決できる次元には属していない。体外授精に比し より身近に起こっている延命措置の問題。 たとえば胃瘻などは、マスコミもとりあげ関心を惹くようになったが、もはや自ら食 事をとれなくなった老人に対して、胃に穴をあけるまでしなくても、鼻からチューブを通して直接栄養を胃に流し込むことは、か なり普通に行なわれている。このような措置が、ほんのその一部でしかない延命に関する技術の進展は、以前なら死んでいたはず の人間の生命をキュウサイし、多数の療養型医療施設を生み出すに到っている。 しかしながら老齢の人間の生命をできるだけ長く引き伸ばすということは、可能性としては現代の医療技術から出てくるが、現 実化すべきかどうかとなると、その判断は別なカテゴリーに属す。「できる」ということが、そのまま「すべき」にならないのは、 核爆弾の技術をもつことが、その使用を是認することにならないのと一般である。 テクネー (TEX(VM) である技術は、ドイツ語 Kunst の語源が示す通り、「できること(können)」の世界に属すものであって、「すべきこと (sollen)」とは区別されねばならない。 テクノロジーは、本質的に「一定の条件が与えられたときに、それに応じた結果が生ずる」という知識の集合体である。すなわ ち、「どうすればできるのか」についての知識、ハウ・トゥーの知識だといってよい。それは、結果として出てくるものが望ましい かどうかに関する知識、それを統御する目的に関する知識ではないし、またそれとは無縁でなければならない。その限りのところ それが単なる道具としてニュートラルなものに留まりえない理由もある。 では、テクノロジーは、ニュートラルな道具だと、いえなくもない。ところが、こうして「すべきこと」から離れているところに、 ほうてき テクノロジーは、実行の可能性を示すところまで人間を導くだけで、そこに行為者としての人間を放擲するのであり、放擲され た人間は、かつてはなしえなかったがゆえに、問われることもなかった問題に、しかも決断せざるをえない行為者として直面する。 妊婦の血液検査によって胎児の染色体異常を発見する技術には、そのまま妊娠を続けるべきか、中絶すべきかという判断の是非 を決めることはできないが、その技術と出会い行使した妊婦は、いずれかを選び取らざるをえない。いわゆる「新型出生前診断」 3限目 問題文

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現代文 高校生

この問題の問2は答がハでした。 解説では一方が並立関係になっていることを理解すればわかると書かれていたのですが腑に落ちません。 自分は一方が対立を表していて応用化学が理由かなと思ってハにしたのですが… わかる方いたら助けてほしいです(泣) お願いします🙇

The 間1 (-5) (5) 次の文章を読んで、後の問に答えよ。 科学技術の発展は目覚ましく、先端化していくにしたがって、科学技術の研究者とい えども自分にごく近いリンセツ分野がどのような状況にあるかはなかなかわからない。 一般の人々にとっては、「クォークに質量のあることがほぼ確定した」といったニュース を聞いても、 それが何を意味するかまったくわからない。 一方、ダイオキシンはがんやその他の病気の原因になるということが広く知られるよう うになって、自分たちの近くにダイオキシンがあるかどうかについて、つねに敏感になっ ている。しかし、 ごみの焼却炉からダイオキシンが発生すると言われても、どのような 燃やし方をしたときにどの程度の濃度のダイオキシンが出るのかといったことは、よく 理解できない。また、ダイオキシンはどのような経路で人体に入り、どの程度の量でど のような被害をおよぼすかといったことも、簡単にはわからない。 こういったことは素 人だけでなく、専門家にもそれほどよくはわかっていないことなのである。 純粋科学は今日ひじょうに専門化しむずかしくなっていて、その分野の知識を十分に 持ち、数学的な表現の意味することがわからねば理解できないという問題がある。一方、 社会に直接深くかかわる環境問題や地震などに関するいわば応用科学については、その 対象がひじょうに多くの要因が複合的にかかわってある現象を引き起こしているので、B それらの要因を分析することがむずかしく、現場を十分に観察しても簡単に結論を出せ ないという困難さを抱えている。 科学技術者は、こういった問題について研究をし、専門分野の学術雑誌に研究結果を 報告する。これが彼らの仕事である。研究すべき課題は「サンセキしているので、学術 論文を書けば、すぐつぎの研究にとりかかり、学術論文の内容をやさしく誰にでもわか 3 るように解説するようなことはほとんどしない。そのような時間はないし、またやさし く書くということは、科学技術者にとってじつはひじょうにむずかしい仕事なのである。 (長尾真「『わかる』とは何か」) 傍線部アイのカタカナを漢字に直せ。 EN 傍線部1 「専門家にもそれほどよくはわかっていない」とあるが、その理由として最も適 当なものを、次のイ~ホの中から一つ選べ。 非常に先端化した専門的な知識を必要とする問題なので、現場を分析するだけではわからな

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現代文 高校生

問9の解説お願いします🙏💦

20 ねばならない。 また、こ (解答番号は、第二間で【古文】 を選択した場合は1~現代文を選択した場合は1~25です。) 第一問 次の文章を読んで、1~問1)に答えよ。 少女が涙に濡れた。差し出し、言う。「ピッ」 それを見た少年が、え、雨なの、と空をアオぐ保証など、言語にはどこに ちない。少年が朝鮮を知らなければ何だって? 何て言ったの? どういう意味なの? と、いきなりことばそのもの が前面に立ち現れる ことになる。 www. ロサンゼルスでも、アルフ・アタでもどこでもよい。 英語とスペイン語でも、北京語 広東語でもよい。 秋田空港でタク シーに乗った高知からの運転士との会話でもよい。複数の言語が出会う言語場複数の言語が用いられている場では、こう したことは日常である。 「おそらくこういう意味だろう」というような意味の曖昧な実現の仕方も、まさに日常の出来事である。 ホテルのフロントで 交わされる会話に耳を傾けてみよう。そこがホテルのフロントであるという言語場の条件に支えられて、「おそらくこういう 意味だろう」解ってくれたようだ」といった仕方で、意味がかろうじて立ち現れている、そんなことは、今もおそらく二四時間、 世界中あちこちのホテルのフロントで起こっている。あちこちの場で起こっている。 ことばができあいの意味を有していて、 それをキャッチボールのようにやりとりするといった図式は、ホテルのフロントでも、国境の検問所でも、やはりBに過 この意味な実現というありようを見てゆくと、意味の鮮明な実現と意味の曖昧な実現の境界もまた、しばしばゆ やかなものであることがわかるであろう。意味の実現を考えるにあたって、この点はまた重要である。 「ことば常に多義的である」といった次元のことを述べているのではない。「ことばが常に多義的である」と それ自体として大きくってはいないものの、ことばが意味となる機制の結果を語っているに過ぎない。 ことばは 意味となったりならなかったりする、そしてそのなったり、ならなかったりという境界自体も、また原理的に固定し難いもの だという意味の実現の原理的なありようをここでは問題にしているのである。「多義性」とは、ことばが意味を持つものでは 意味なものであることの結果についての書学的なアプローチによる名づけである。「両義性」 や 「曖昧性」もま たにする。ついでに言えば、「それはまあ、なんて言うか、ちょっとあれですが」とか「これこれっていった感 ことばにする方式、意識的に表現を明瞭にする曖昧化といったことが、表現上の選択肢となり得ることも、 この度にある。 ことばは意味を持つ」と考えた。このことは言すると、ことばを「意味を持つ/持たない」という二項 対立の中に位置づけようとしていることに他ならない。実際の甘酒場において意味が立ち現れる、立ち現れないの際にあること レクがありま は、いくらでもある。そうした意味の「持つ/持たない」の二分法で切り分けようとすること自体が、生理の所行と言わ れがされたことば)であれ書かれたことばであれ、外形を有している。形が在る。形を有すること ばか何らかの意味を持つと見たくなるのは、素朴な意味論のように見えるけれども、実はソシュール言語学を決定的な淵源とす 現代である。 ことばがじないのは、青森方言や鹿児島方言のごとく、そもそもコードが異なるからだとか、意味を持つことばを 聞き手が知らないからだとか、あるいは するからだと考えた。こうした考えは全て、ことばは通じるものだ」という テーゼとして出発している。そうした前提に立って、 伝達の失敗とか意思ソツウがうまくゆかな いといったこと、じようとしてきた。あるいは「文字通りの意味」がまずあり、それが実際に用いられる段になると、「言 があると考えてきた。書かれたことばには「行間を読む」などという比喩もあった。「コミュ ニケーション」にあっては、ことばを「正しく」「正確に」用いることがしばしば語られた。さらにはことばが「文化」にまで める てきたのである。 あらかじ 拡大され、「異文化」というコードを知ること、「異文化理解」などといった考え方が喧伝されてきた。これら多くの考え方の中 で、大前提となる、同一言語コードの上で、即ち正しいコードの共有の上で、ことばの十全たる受け渡し、即ちことばの正しい キャッチボールさえ実現できれば、「ことばは通じるものだ」という暗黙のテーゼ自体は揺るぎないものとして、保持され続け かも戻すた形がと ことばを「意味を持つ/持たない」という二項対立の中に措定しようとする限り、「ことばは通じるものだ」という暗黙のテー ゼは動きようがない。ことばが意味を「持っている」なら、何かしらの外的な阻害条件が加わらない限り、 ことばは投げ与えら れたので、その意味は話し手から聞き手に「伝達」されることになってしまうからである。 言語学的な立場から情報通信理論の図式を提出している典型として、R・ヤコブソン『言語とメタ言語」を挙げることができ る。 「送り手」が「受け手」に対して「メッセージ」を送る。この「メッセージ」ということばも、なかなかに危ないことばで ある。同書では「場面」が強調されている。 送り手と受け手に完全に、もしくは部分的に共通した「コード」と、送り手と受け 手の物理的経路と心理的なつながりである「接触」が欠かせないとして、ヤコブソンはこうした六つの因子を挙げる。場面を強 調している点は首できるものの、送り手が受け手にメッセージをあるコードに従って送るといった考え方は、いかにも機械的、 図式的で、素朴な発想である。こうした機械的 図式的という非現実性は、ヤコブソンの論の隅々に通底する二項対立論がもた らすものである。もっと言えば、ソシュール以来の言語学、記号学、 構造主義が、共通して胚していた二項対立論の、謂わば 負の表れである。負の表れと言ったのは、二項対立論は、二〇世紀思想とまではゆかずとも、少なくとも二〇世紀言語学にあっ ては、長足の発展を基礎づけた、決定的な方法論の一つだったからであり、負の結果と同時に巨大な正の成果も招来してきたか らである。 ジュリア・クリステヴァのような言説の中にも、送り手が「受け手=解読者」にメッセージを送るという、こうした図式が入 り込んでいる。 「伝達される意味」などということばに頼れているように、送られる「タッセージ」はそこでは事実上、意味を 持っていると考えられている。 クリステヴァが「受け手=解読者は、聞こえることを言える範囲でのみ解読する」と言うとき、 「送り手」における意味と、「受け手」における意味という、少なくとも二種の意味があり得ることを掘り下げる、一歩手前まで 来ているのにも拘わらず、どうしても意味を持った「メッセージ」を伝達するという観念から、抜け出ることができないでいる。 「送り手」がある意味をメッセージとして込める、その「メッセージ」を受け手が自ら「言える範囲でのみ」 解読するというク リステヴァの図式においては、やはり「ことばは意味を持っている」 という前提が揺るがない。J・J・カッツ「言語と哲学」 にも似たような考えが見える。 実のところ、送られるのは、一定の意味を持った イッセージなどではなく、一度は音声とい う形で意味から自由になったことばなのである。 ヤコブソンなどのこうしたコード論に立って、意味が実現しないと言っても、それは異なったコード間での出来事ではないか、 エンコード (encode) したのと同じ code でデコード (decode) していないのだから、と反論するのは、見苦しい言い訳に過ぎ ない。その言語観は、まるで数理的な体系でもあるかのような、コードなるものを幻想する以前に、コードなど成立しない言語 場を予めはっきりと理論的に位置づけ得ていただろうか? あるいは一瞬でも考えただろうか? 繰り返すが、 ことばが意 味となったりならなかったりする、あるいはかろうじて意味となる、それは私たちにとって日常であり、世界にとって自然で ある。言語にとっては存在のありかたそのものなのである。そうした事態がその言語観の中に鮮明に位置をシめていないのであ れば、言語の実現のリアリティの大きな前提が、その言語観においては予め切り捨てられている、ないしは隠蔽されていること になる。「ことばが通じる」という事態よりも「通じたり通じなかったりする」ことが先に、あるいは、より深いところにある がゆえに、その深いところにある前提を除外した時点で、その言語観は少なくとももう今日の理論としては失格である。 言語学 としてもヒソウであり、言語教育にあっては、余計に罪深い。ことばが通じない悲しみを背負わぬ言語教育など、信じられるだ ろうか? 百歩譲って、コード論者の言い分を一旦、受け入れてみてもよい。そうしたコード論を理論的に成立させるためには、少なく とも次の二つの本質的な部分を解決せねばならない。 第一に、異なった言語の間だけではなく、実はいわゆる同じ言語の話し手の間でも、つまり同じコードの間でも、ことばが意 24一般入試A問題

解決済み 回答数: 1
現代文 高校生

この暇と退屈の倫理学の問題が考えれば考えるほど分からなくなってしまったので、解説、解答してくだされば嬉しいです!お手数おかけしますがよろしくお願い致します🙇

R (H M 青 Jeg いるのである。 は社会主義革命の到来後の社会 以外の何に向かうのか。 に向かうのだろう。 余裕を得 しよう。そのときに私たちけ の講演 「民衆の芸術」で、 の盗人のように突然やってく。 モリスは、もしかしたら 起こそうかと考えている。 おもしろいのは、社会 だろうか。 者、ウィリアム・モリ 理学の試みは、 いかに生きるべ 殿の中で退屈し 国や社会が豊かになれば、そこに生きる人たちには余裕が生まれる。その余裕には少なくとも 一つ目はもちろん金銭的な余裕だ。人は生きていくのに必要な分を超えた量の金銭を手に入れ る。稼いだ金銭を全て生存のために使いきることはなくなるだろう。 二つの意味がある。 もう一つは時間的な余裕である。社会が富んでいくと、人は生きていくための労働に全ての時 間を割く必要がなくなる。 そして、何もしなくてもよい時間、すなわち暇を得る。 では、続いてこんなふうに考えてみよう。富んだ国の人たちはその余裕を何に使ってきたのだ ろうか。そして何に使っているのだろうか。 「富むまでは願いつつもかなわなかった自分の好きなことをしている。」という答えが返って きそうである。確かにそうだ。金銭的・時間的な余裕がない生活というのは、あらゆる活動が生 存のために行われる、そういった生活のことだろう。生存に役立つ以外のことはほとんどできな い。ならば、余裕のある生活が送れるようになった人たちは、その余裕を使って、それまでは願 いつつもかなわなかった何か好きなことをしていると、そのように考えるのは当然だ。 ならば今度はこんなふうに問うてみよう。その「好きなこと」とは何か。 やりたくてもできな かったこととはいったい何だったのか。今それなりに余裕のある国・社会に生きている人たちは、 その余裕を使って何をしているのだろうか。 「豊かな社会」、すなわち、余裕のある社会においては、確かにその余裕は余裕を獲得した 人々の「好きなこと」のために使われている。しかし、その「好きなこと」とは、願いつつもか なわなかったことではない。 問題はこうなる。「そもそも私たちは、余裕を得たあかつきにかなえたい何かなど持ってい! たのか。 少し視野を広げてみよう。 二十世紀の資本主義の特徴の一つは、"文化産業とよばれる領域の巨大化にある。 二十世紀の資 本主義は新しい経済活動の領域として文化を発見した。 もちろん文化や芸術はそれまでも経済と切り離せないものだった。芸術家だって霞を食って生 きているわけではないのだから、貴族から依頼を受けて肖像画を描いたり、曲を作ったりしてい た。芸術が経済から特別に独立していたということはない。 けれども二十世紀には、広く文化という領域が大衆に向かって開かれるとともに、大衆向けの 作品を操作的に作りだして大量に消費させ、利益を得るという手法が確立された。そうした手法 に基づいて利益を上げる産業を文化産業とよぶ。 「好きなこと」はもはや願いつつもかなわなかったことではない。それどころか、そんな願い なこと」を与えてもらっているのだから。 があったかどうかも疑わしい。 願いをかなえる余裕を手にした人々が、今度は文化産業に「好き 分の好きなことが何なのか分からない。 資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だ が、暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自 そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提

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