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17 最後の一句
この時
「はい。」
「おまえの申し立てにはうそはあるまいな。もし少しても申したことにま
ちがいがあって、人に教えられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに
申せ隠して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠のことを申すまで責
めさせるぞ。」佐佐は責め道具のある方角を指さした。
いちはさされた方角をひと目見て、少しもたゆたわずに、 「いえ、申し
たことにまちがいはございません。」と言い放った。その目は冷ややかで、
その言葉は静かであった。
「そんなら今一つおまえに聞くが、身代わりをお聞き届けになると、おま
えたちはすぐに殺されるぞよ。父の顔を見ることはできぬが、それでもい 33
いか。」
「よろしゅうございます。」と、同じような、冷ややかな調子で答えたが、
かみ
少し間をおいて、何か心に浮かんだらしく、「お上のことにはまちがいは
ございますまいから。」と言い足した。
きょうがく
佐佐の顔には、不意打ちにあったような、驚愕の色が見えたが、それは
おもて
③お
すぐに消えて、険しくなった目が、いちの面に注がれた。憎悪を帯びた驚
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異の目とでも言おうか。しかし佐佐は何も言わなかった。
まちどしより
次いで佐佐は何やら取り調べ役にささやいたが、まもなく取り調べ役が
町年寄に、「ご用が済んだから、引き取れ。」と言い渡した。
しらす
おおた
いながき
白州を下がる子どもらを見送って、佐佐は太田と稲垣とに向いて「生い4
先の恐ろしい者でござりますな。」と言った。心のうちには、哀れな孝行
娘の影も残らず、人に教唆せられた、愚かな子どもの影も残らず、ただ氷
のように冷ややかに、刃のように鋭い、いちの最後の言葉の最後の一句が
やいば
げんぶん
とくがわ
*
反響しているのである。元文頃の徳川家の役人は、もとより「マルチリウ
ム」という洋語も知らず、また当時の辞書には献身という訳語もなかった30
ろうにゃくなんにょ
ので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衛の娘に現れたよう
な作用があることを、知らなかったのは無理もない。しかし献身のうちに