めいそう
じょう
こ
上学的になる。
次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。(2点)
乗り物のうちで、歩くことにもっとも近いのは、著者の経験では
カナディアン・カヌーに思われる。もちろん、 ホワイトウォータ
ーに挑むスポーツとしてのカヤッキングではない。河と湖をカナデ
かつ
ィアンカヌーで進み、森のなかではそれを担いで踏破する移動だ。
てつがく
カヌーは深い思索に誘われる。哲学するためにこの乗り物を作っ
たのではないかと思えるほどだ。しかしそれは歩いているときや
※トレッキングしているときとは、思考の働き方がかなり異なる。
カヌーを漕いでいるときの方が、より深く、より多角的に、その場
所に包まれる。自分は環境の一部分となり、その一部分全体が移動
する。自分は水となり、その水が海に向かう。 歩いているときには、
自分の身体は環境に包まれつつも、それから身を引き剥がし、足を
宙に浮かしている。カヌーでの思考は、歩行のときよりも形而
ヨットと乗馬は、圧倒的に素晴らしい経験であるが、歩くことと
は似ていない。 乗馬には、馬という相棒がいる。相棒と自然につい
て対話しながら進んでいく。だが、この相棒と私とは志向性がかな
り異なり、ときに初心者には難解な言葉を容赦なく浴びせてくる。
ようしゃ
馬の歩行のリズムは、人間の歩行のリズムと異なるが、非常に快適
。 ※
であり、快楽をもたらす。 “ケンタウロスは、ひとつの人間の身体
的理想なのかもしれない。
こうい
ヨットは、散歩よりもはるかに危険な行為であり、個体の生命を
つねに自覚させられる。セイリングでは、カヌーと同じく、自然
に完全に包まれ、風と波、海の一部と化す。しかしカヌーが身体と
ひかく
の一体感が強いのに比較すると、ボートは依然として乗り物であり、
クルーもいる。風と波に従いながら、それらを最善に利用するには、
知恵とチームワークが必要である。セイリングでは、多忙な労働と
瞑想が交互にやってくる。それは風と波のリズムの反映である。
こうして、カヌーやヨット、乗馬では、自然のもつ意味が、そ
れぞれに散歩やトレッキングとは大きく異なっている。