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日本史 高校生

宝暦、天明期の文化の問題です。15番を教えてください。

やまがただい [12 明和事件] (1767) 山県大弐 江戸で尊王論→死刑 がもうくんべい らいさんよう 高山彦九郎 諸国遊説, 蒲生君平 『山陵志』 頼山陽 『日本外史』 (3) 生活から生まれた思想 ぜんかん とひ とあん ①心学(京都) (13石田梅岩 『都鄙問答』 平易な町人道徳 手島堵庵・中沢道二らが ② 封建社会への批判 (4) 儒学と教育 ① 幕府 ふんど (14 安藤晶益 『自然真営道』 万人直耕の自然の世が理想 18世紀後半 儒学のうち古学派 折衷学派・考証学派がさかん →寛政異学の禁(1790) で朱子学を正学に→官立の昌平坂学問所設置 ほんと ② 諸藩 藩校(藩学) 藩士の教育 郷校(郷学) 城下から離れた地の藩士や庶民 ③民間 私塾 [15 〕 (大坂) 町人出資, 富永仲基(16 井幡彬) なかもと 寺子屋 一般庶民の初等教育, 読み・書き・そろばん 女子教育 『女大学』 貝原益軒の著作をもとに作成 女性の心得を説く (5) 文学と芸能 出版物や貸本屋の普及 さんきょう しかけ きょうし ① 小説 17 洒落本〕:118 山東京伝) 『仕懸文庫』 [19 黄表紙 〕: 恋川春町 『金々先生 ほん [20 よきぶそん 上田秋成 『雨月物語』 ② 俳諧 与謝蕪村 (天明期) 『蕪村七部集』 はやる なんぼ しょくさんじん やどやのめしも ③ 風刺 川柳 柄井川柳ら撰 『誹風柳多留』 狂歌: 大田南畝(蜀山人), 石川雅望 (宿屋飯盛 ) でんじゅてならいかがみ ④浄瑠璃 竹田出雲 (18世紀前) 『仮名手本忠臣蔵』 『菅原伝授手習鑑』 近松半二 (18世紀後) 『本朝廿四孝』 るの だんきん (6)絵画 ① 浮世絵 宝暦期 [21 錦絵 〕 (22鈴木春信) 「弾琴美人」 など 多色刷りの版画を ME ふじょうちゅっぽん 寛政期 美人画 〈23 喜多川歌麿) 「婦女人相十品」など とうしゅうしゃちく えびぞう 役者絵・相撲絵 (24東洲斎写楽 「市川蝦蔵」など 大首絵の手法 ②写生画 (25円山等) 「雪松図屏風」 など 遠近法の手法 円山派 立画(画) 26

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倫理 高校生

2と3、答えが入れ替わっていませんか?

98 第 4 章 国際化と日本人としての自覚 3 日本における儒学の展開 1603年 徳川家康 江戸幕府を開く (265年間) ・・・戦乱の終結による世の中の安定 世の中に対し超然とした態度をとる仏教に代わり, 現実社会の人倫に主眼を置く儒教が定着 (1) 朱子学派 5代将軍綱吉 (元禄期) 文治主義により朱子学を官学とし儒学を奨励 →朱子学の考え方が、江戸幕府が統治体制を維持していく上で、都合が良いものであった。 いんげんじゅ 桂庵玄樹 室町時代の禅僧(臨済宗) 明で朱子学を学ぶ わい (1427~1508) 菊池・ 隈府 (熊本) で朱子学を講義→薩摩へ (薩南学派を形成) げんぞく - X (' ) 近世儒学の祖 禅僧-京都五山で朱子学を学ぶ。 ⇒還俗し儒学者へ はやしざん 林羅山 (2 ] 身分秩序の上下関係は天理にかなった秩序である。 (1583~1657) 日本朱子学 の祖 「天は尊く地は卑し,天は高く地は低し、上下差別あるごとく人にも また君は尊く民は卑しきぞ」 幕藩体制を支える封建的身分秩序の根拠となる。 つつし 『三徳抄』 (3 『春鑑抄』 日常生活の言動を敬んで, 天理 (永遠の秩序) を守り社会の秩序や礼儀 に従うよう修養に心がける。 大名(例 ) 平の神と朱子学の生の一致を配さて我を重んじる。 そんのうじょうい (1618~82) ( 神儒融合 ) →幕末の尊王攘夷に影響を及ぼした。 新井白石 (1657~1725) 幕政に参与 宣教師シドッチを尋問し「西洋紀聞』を著す あめのもりほうじゅう 雨森芳洲 (1668~1755) 対馬藩に仕える 朝鮮外交を担当・・・ 「誠信の交わり」 (友好外交) に尽力 かいばらえきけん 貝原益軒 (1630~1714) 福岡藩に仕える 朱子学の窮理の精神にもとづく博物学的研究書である 『大和本草』 や 『養生訓』・『和俗童子問』 などの教訓書・教育書を著す ・・・朱子学の観点からキリスト教を批判 西洋の科学技術は評価 (2) 陽明学派 なかえとうじゅ 中江藤樹 ・・・すべての人の心に天が与えた道徳の根本 普遍的な真理 すべての人を愛し、 すべての人を敬うこと ( 愛敬) ←時・処 (場所) 位 (身分) に応じた道徳の実践 形式より心の内面のあり方を説く ) (1608~48) 近江聖人 文化と伝 日本陽明学 の祖 『翁問答』 陽明学 晩年に傾倒 ⇒P.39 くまざわばんざん 熊沢蕃山 (1619~91) ⇒宇宙万物を存在させる根源を全孝という。 生まれながらに持っている心の本質・・・ 善悪を判断できる力(良知) それを自覚すること・・・良知を発揮すること ( =致良知) ) 「良知によって知り得たことを実践すること」 中江藤樹の門人師の「時・処位」の思想を継承 状況に応じた礼の実践 聖人の跡ではなく心を学ぶべきであると説く。 岡山藩池田光政に仕える。 治山治水に業績 環境保護の思想

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日本史 高校生

徳川家の出来事A〜Fまでを年代の古い順に並ばなければいけないのですが、BFDAECの順であっていますか?教えて頂きたいです🙇🏻‍♀️

3 以下の問に答えよ。 A: 徳川家宣は、 朱子学者の(Ⅰ)と側用人の間部詮房を信任して、 政治の刷新をはかろうとした。 しかし、 徳川家宣は在職わずか3年余りで死去し、 そのあとを継いだ徳川家は満3歳であったため、 引き続き ( I )らが幕府政治を担うことになった。(I)は①長崎貿易で、 多くの金銀が流 出していたことを問題視し、これを防ぐために② 貿易額を制限した。 B:③関ヶ原の戦いで勝利したⅡは、1603年、④全大名に対する指揮権の正統性を得るための 征夷大将軍の宣下を受け、江戸幕府を開いた。1605年、将軍が世襲であることを諸大名に示すため、 子の(Ⅲ)に宣下を受けさせた。その後(Ⅱ)は駿府に移ったが、大御所として実権を握り続 け、大坂の陣で豊臣氏を攻め滅ぼし、その直後、大名の居城を1つに限り、⑤武家諸法度を制定して大 名をきびしく統制した。(Ⅲ)は、⑥天皇や公家が守るべき朝廷の運営などの基準を定め、娘を御 水尾天皇に入内させた。 C : 徳川宗家 (本家) がとだえると、 ⑦ 御三家の紀伊藩主であった(Ⅳ)が将軍になった。 ( N )は、29年間の在職のあいだ、諸政策を実行して②幕政の改革に取り組んだ。18世紀後半 は⑨幕藩体制にとって大きな曲がり角となった。 ⑩ 三都や城下町の町人地中心部に住む都市民衆は、零 細な棟割な側に住み、わずかな ① 貨幣収入で暮らしを支え、物価の上昇や飢饉、災害のときには、たち まち生活を破壊させた。 D : 幼少の徳川家綱を会津藩主で叔父の(V)が支えたことで、 社会秩序が安定しつつあった。 平和 が続く中で、 重要な政治課題となったのは、戦乱を待望する 12牢人や 「かぶき者」 への対策であった。 17 世紀後半には、政治の安定と経済の発展とを背景に(VI)が将軍となった。 ( V )の政治 は(VI)が(a)として支えた。 (VI)は代がわりの武家諸法度を出し、 13 幕府の統治理念 に変化があった。 また (VI)は、 1生類すべての殺生を禁じ、 捨子の保護なども命じた。 E 15 田沼意次が退いたあと、 徳川家斉の補佐として (b)に就任したのが、 白河藩主(VII)で ある。 国内外の危機がせまるのを感じて、飢饉で危機におちいった農村を復興することによって、幕府 の財政基盤を復旧し、 ⑩6 打ちこわしを受けた江戸の治安問題を解決し、 17 ロシアを中心とする 18 海外勢 力に対応するための 19 諸政策を実行していった。 IX SUPRA CRE F:徳川家は、 1635年、新たな武家諸法度を発布し、諸大名に法度の遵守を厳命した。 その中で、 大名には20国元と江戸とを1年交替で往復する制度を義務づけ、大名の妻子には江戸に住むことを強 制した。こうして()の頃までには、2幕府の職制についても整備された。 1637年、2島原 の乱後、幕府は、キリスト教に対してきびしい監視を続けていった。 問1 A~Fの文中(I) ~ (V)に入る人物名をそれぞれ漢字で答えよ。 IX 知・技 9

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日本史 高校生

至急です 日本史の問題で 『棄捐令とはどのようなものか教科書から30字程度で抜き出しなさい』 という問題があるのですが どこを抜き出したらいいのかわからないので教えていただきたいです。 よろしくお願いします

866 一正 ic 15 幕藩体制の立て直し てい とくがわいえなり 1787 (天明7)年、 徳川家斉が11代将軍となったころ、 1773-1841 寛政の改革 江戸で天明の打ちこわしがおこり、 幕府に衝撃をあ よしむね しらかわはんしゅ まつだいらさだのぶろうじゅう たえた。そのため, 8代将軍吉宗の孫で白河藩主の松平定信が老中にな 家斉を補佐した。 17. 革を進めた。 けんやくれい かび しゃれ p.171 定信は, 華美な生活をおさえるために倹約令を出すとともに、洒落本 1758-1829 定信は,吉宗の政治改革を理想として、寛政の改 を摘発するなど、風俗の取り締まりを強化した。 武士には学問と武芸を てきはつ 質実剛健な気風をとりもどそうとする一方、困窮した旗本・ 励して、 炭人を救済するために乗損査を出し、札差などからの借金を軽減した。 このころ、関東の農村から貧しい農民が江戸へ流入し、武家や町家の ぎょうしょう 奉公人になったり, 行商などを行ったりしてその日暮らしの生活をして でかせ きゅうり きのうれい いた。 定信は,出稼ぎを制限し, 旧里帰農令を出して江戸で定職を持た しゅそう ない者を故郷に帰し, 農業人口の確保につとめた。 また、各地に社倉や ぺいこく き きん きょうしゅつ かこい 義倉を設け, 飢饉に備えるために米穀を供出させてたくわえさせた ( まちにゅうよう 米)。 江戸市中でも, 町入用(町費)の節約分の7割を積み立て, 災害や飢 しちぶ つみきん、 いしかわじま にんそくよせば に備えさせた (七分積金)。 さらに, 江戸の石川島に人足寄場を設けた。 ゆしま せいどう りん しじゅく かんがく 学問を重視した定信は, 湯島の聖堂に付属した林家の私塾に官学とし しょうへいざか しての性格を持たせた (のち昌平坂学問所)。 そのうえで, 昌平坂学問所に しゅしがく かんせい いがく おいて朱子学以外の学問を講ずることを禁じ(寛政異学の禁) 学問吟味 がくもんぎんみ とうよう という試験によって役人を登用する新しい制度もつくった。 定信の厳しい政治は,しだいに江戸の民衆の不評をかうようになり, 一件などをめぐって家斉と対立した定信は,老中在職6年余りで退 陣した。しかし,七分積金制度など,定信の政策のなかにはその後も維 持されたものがあり、幕藩体制がつづくうえで大きな意味を持った。 はんせい 諸藩でも18世紀なかごろから藩政改革が行われ,特産物の増産と専売 制度によって財政の再建を ➡p.167 はかり,藩校を設立して有 ➡p.170 能な人材を育てるなど, 大 きな成果をあげる藩もあっ よねざわ た。 改革を主導した米沢藩 うえすぎはるのり ようざん の上杉治憲 (鷹山) 秋田藩 1751-1822 さたけよしまさ ほそかわ の佐竹義和, 熊本藩の細川 __1775-1815 1720-85 しげかた ◎めいくん 重賢らは名君と称された。 松平定信( おしすす せきでん D ③ 籍田の碑(山形県米沢市) 上杉鷹山が,自ら田を耕 さんこうぎょう 産興業をはかるなどの藩政改革を行った。 すことで農業の尊さを示した「籍田の礼」を伝える碑。 こうじょうかん しょく また, 鷹山は藩校 (興譲館)を創設し、 絹織物業の殖 ① ① 江 ② ら 45 た 第3

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