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日本史 高校生

赤線部とありますがどちらも財政難から取られた政策なのでどっちもお金を集めることに重視したものじゃないんですか?

第一部 田沼時代 相の登用 田沼意次の時代へ 1奉行に P.221表2 東進金谷本 7173 の登用 の登用 吉宗家のあとが、10代将軍の徳川家治”です。 この時、政治の中心 隅の登用 おきとも ろうじゅう となったのが側用人の田沼意次です。 田沼意次は、側用人から老中に昇進 し、後には彼の子である田沼意知も若年寄にまで昇進します。 わかどしより 奨励 さとうき ・朝鮮人 の栽培 この田沼意次がおこなった政治ですが、 吉宗が農業、 つまり米を集める ことを重視した政治だったのに対して、商業、 つまり金を集めることを重 した政治だったといえます。 ニ昆陽 ほ特 し権 P.220表1 田沼による政策の中心が、 株仲間の奨励で す。 株仲間とは、その商品の独占販売権を持 3、非常にオイシイ同業者組合のことです。 ただ、こんなオイシイ組合をただで奨励する わけはありません。田沼は商人たちに、 株仲 間としての特権を認めてもらいたければ、幕 8 三大改革 1 田沼意次 特権 金 出しな~ ほしけりゃ 府に対して運上や冥加という税金を支払うように命じるわけです。 うんじょう みょうが 商人たちは、特権ほしさに幕府に対してどんどん運上や冥加を支払うわ です 0 運上や冥加がどんどん入ってくると、 幕府の財政も潤う。 それを おこなったのが田沼意次ということで田沼親子はどんどん出世していくわ です。 の改革の時に、 株仲間は公認されました。 ちなみに株仲間ですが、 公認したのは田沼ではありません。 吉宗の享保 み出す。 実子をなくし、 後継者が不在だったため、一橋家から家斉を迎えて11代将軍とした。 徳川治江戸幕府の10代将軍。 家重の子。 祖父の吉宗から教えを受けた。 田沼意次を登用し、 田沼時代を生 田沼意知田 さのまさこと 江戸城中で佐野政言に斬られ死亡。 佐野政言 231

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倫理 高校生

2と3、答えが入れ替わっていませんか?

98 第 4 章 国際化と日本人としての自覚 3 日本における儒学の展開 1603年 徳川家康 江戸幕府を開く (265年間) ・・・戦乱の終結による世の中の安定 世の中に対し超然とした態度をとる仏教に代わり, 現実社会の人倫に主眼を置く儒教が定着 (1) 朱子学派 5代将軍綱吉 (元禄期) 文治主義により朱子学を官学とし儒学を奨励 →朱子学の考え方が、江戸幕府が統治体制を維持していく上で、都合が良いものであった。 いんげんじゅ 桂庵玄樹 室町時代の禅僧(臨済宗) 明で朱子学を学ぶ わい (1427~1508) 菊池・ 隈府 (熊本) で朱子学を講義→薩摩へ (薩南学派を形成) げんぞく - X (' ) 近世儒学の祖 禅僧-京都五山で朱子学を学ぶ。 ⇒還俗し儒学者へ はやしざん 林羅山 (2 ] 身分秩序の上下関係は天理にかなった秩序である。 (1583~1657) 日本朱子学 の祖 「天は尊く地は卑し,天は高く地は低し、上下差別あるごとく人にも また君は尊く民は卑しきぞ」 幕藩体制を支える封建的身分秩序の根拠となる。 つつし 『三徳抄』 (3 『春鑑抄』 日常生活の言動を敬んで, 天理 (永遠の秩序) を守り社会の秩序や礼儀 に従うよう修養に心がける。 大名(例 ) 平の神と朱子学の生の一致を配さて我を重んじる。 そんのうじょうい (1618~82) ( 神儒融合 ) →幕末の尊王攘夷に影響を及ぼした。 新井白石 (1657~1725) 幕政に参与 宣教師シドッチを尋問し「西洋紀聞』を著す あめのもりほうじゅう 雨森芳洲 (1668~1755) 対馬藩に仕える 朝鮮外交を担当・・・ 「誠信の交わり」 (友好外交) に尽力 かいばらえきけん 貝原益軒 (1630~1714) 福岡藩に仕える 朱子学の窮理の精神にもとづく博物学的研究書である 『大和本草』 や 『養生訓』・『和俗童子問』 などの教訓書・教育書を著す ・・・朱子学の観点からキリスト教を批判 西洋の科学技術は評価 (2) 陽明学派 なかえとうじゅ 中江藤樹 ・・・すべての人の心に天が与えた道徳の根本 普遍的な真理 すべての人を愛し、 すべての人を敬うこと ( 愛敬) ←時・処 (場所) 位 (身分) に応じた道徳の実践 形式より心の内面のあり方を説く ) (1608~48) 近江聖人 文化と伝 日本陽明学 の祖 『翁問答』 陽明学 晩年に傾倒 ⇒P.39 くまざわばんざん 熊沢蕃山 (1619~91) ⇒宇宙万物を存在させる根源を全孝という。 生まれながらに持っている心の本質・・・ 善悪を判断できる力(良知) それを自覚すること・・・良知を発揮すること ( =致良知) ) 「良知によって知り得たことを実践すること」 中江藤樹の門人師の「時・処位」の思想を継承 状況に応じた礼の実践 聖人の跡ではなく心を学ぶべきであると説く。 岡山藩池田光政に仕える。 治山治水に業績 環境保護の思想

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日本史 高校生

何をどう挽回しようとしているのですか

強兵のために貿易が必要であるとして、外交を担当する外国奉行を いて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結ん あんせい 貿易は、1859 (安政6)年から横浜 日 長崎 箱館の3港で始まった。 ばんかい げんじ 「長州藩はこれを挽回しようと、 1864 元治元)年に京都で会津藩・薩摩藩 きんもん ついとう など幕府側と戦ったが敗れ (禁門の変)、 朝廷の命で幕府による追討を受 せい しものせき けた(第1次長州征討)。 長州藩は、前年の外国船砲撃の報復としてイギ リス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊による 下関砲台 への攻撃も受けたため、攘夷の不可能を悟り、幕府に従う態度をとった。 「幕府はこのあと、1865 (慶応元) 年に朝廷から条約の勅許を獲得した。 こんだん よこすか ✓かくと また、フランスから顧問団を招いて横須賀に造船所を設けたほか、 陸軍 でんしゅう 伝習をおこなって軍事力の全面的な洋式化を進めた。一方、長州藩では、 きた たかすぎしんさく。 身分を問わない志願者による奇兵隊を率いた高杉晋作らの挙兵によって 桜田門外の変 (茨城県立図書館蔵) きょうへい とうかいどう ●神奈川が交通の多い東海道の 宿駅だったため、 神奈川のかわ りに横浜を開港した。 1839-67 ほうき じょうい 当時の将軍が病弱で子がなか ったところから跡継ぎが問題と なった。 井伊直弼ら血統の近さ を重んじて徳川家茂を推す伝統 的な立場と、困難な時期である から賢明な徳川慶喜が望ましい とする立場とで対立した。 けっとう この時、幕府は朝廷に条約の勅許を求めたが、通商は明確な 。小五郎(木戸孝充)らもとの尊王攘夷派が主導権を回復し、これに対 の放棄であり、攘夷の風潮が強かった朝廷は条約を結ぶことをして幕府は再び長州征討を宣言した(第2次長州征討)。しかし、第1次 かった。当時は将軍の跡継ぎをめぐる対立のがあり、対立する双方 長州征討中から幕府の実力に疑問をもち、長州藩尊王攘夷派との関係を 廷に働きかけた結果、朝廷の発言力が高まっていた。それでも深めてきた西郷隆盛や大久保利通の主導した薩摩藩はこれに応じず、 直弼は条約を結び、批判者を弾圧したが(安政の大獄)、天皇をない 1866 (慶応2)年に坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結んだ。 1827~77 ちゅうかい さっちょう そんのう 1835-67 「あんさつ ろにしたとして尊王攘夷の立場からの反発が強まり、 1860 (万延元)年(15 まんえん 横浜には1863 (文久3)年からイギリスやフランスの さくらだもんがいへん 暗殺された(桜田門外の変) 。 これにより、幕府の権力が動揺したた どうよう 貿易の動向 ちゅうん 軍が駐屯し、攘夷の動きにもかかわらず、 貿易は 幕府は、朝廷と融和する公武合体をめざし、孝明天皇の味である おおむね順調に発展した皿。 輸出では生系・茶・義崩紙」が主であった。 を14代将軍徳川家茂の妻に迎えた。 また、 朝廷の要請を受け入れて、 太平天国の乱で上海周辺の蚕糸業 地域が荒廃したため、 中国にかわ 「在位 184666 ようせい たいへいてんごく シャンハイ さんしぎょう こうはい おりもの 1846 16~66 しっきゃく よしのぶ 政の大獄で失脚した徳川慶喜を将軍後見職とするなど改革を進めた って生糸の輸出がのび、 国内生産が急速に拡大した。輸入品は、 織物 なんぼく 1837~1913 「ちょうしゅうはん こうしたなか、 尊王攘夷派が主導する長州藩は朝廷に対する影響のほか、 クリミア戦争や南北戦争の中古品を幕府や諸藩が輸入した武 ぶんきゅう じょうらく を強め、 1863 (文久3)年には朝廷の命として家茂を上洛させて攘 を約束させ、みずからも関門海峡を通過する外国船を砲撃した。薩 かんたい あいづ なまむぎ さつえい 「さっ! かんりんまる p.54 しせつだん 藩も前年のイギリス人殺害事件 (生麦事件)の報復として鹿児島湾に ほうふく 関係を築き、幕府や会津藩と結んで長州系の勢力を京都から追放した。 したイギリス艦隊と交戦したが (薩英戦争)、 その後、イギリスと良好な 器 艦船が主であった。 貿易は輸出超過であったが、 1860年代後半にな ると、軍事関係の輸入が増えて輸入超過となった。 当時の中国では民衆 の消費するアヘンが多く輸入されたが、日本では幕府や藩が銃砲や艦 船を輸入して財政難を深めていった。 じゅうほう ひじゅんしょ 幕府は1860 (万延元)年の日米修好通商条約の批准書交換に海軍伝習 経験者が乗り組んだ咸臨丸を含む使節団をアメリカへ送ったのをはじめ、 四国連合艦隊による下関 国連合艦隊によ 台の占領 砲台の大砲は、長 州藩がつくった青銅製の洋式 砲。攘夷論では刀での戦いが 主張されたが、イギリス軍の 記録によれば、イギリス兵の 死傷原因は銃砲弾と矢が主で 刀や種によるものはなかった 石炭2% その他 海産物 12% 7% 1867年 64 第2章 近代ヨーロッパ・アメリカ世界の (横浜開港資料館蔵) この戦いによって、長 州の尊王攘夷派は何を 感じとっただろうか。 けん 繰り返し欧米に使節団や留学生を派遣し、長州 薩摩藩もひそかに視 とこう 察者や留学生を派遣した。 1866 (慶応2) 年に幕府が海外渡航を解禁する と諸藩もこれに続き、 欧米社会の知識が本格的にもたらされた。 8% 1蚕卵紙は、蚕の卵が産み付 られた紙。 日本産の蚕は病気 強いことから当時のヨーロッ で歓迎され、 蚕卵紙のかたち 輸出された。 あんか 織物は機械制生産により輸 品が比較的安価であり、 国内 産されていなかった毛織物な が、めずらしい風合いや柄の めに人気を博した面もあった。 日本と中国の主要貿易 品で、 共通する点、 異 なる点は何だろうか。 それ ぞれ、その背景も考えてみ よう。 1867(慶応3)年の日本と中国 の輸出入 石炭 海産物が日本 から中国に輸出され、 米・砂糖・ ゆんか 綿花がアジア内の貿易であるほ かは、欧米との貿易。 両国とも 輸入超過で金銀が流出している (石井孝「幕末史の研究」 Hsiao Liang-lin, China's Foreign Trade Statistes, 1864 1949などより作成) 米2% 石炭2% 海産物2% 糸2% 原総 7% 茶 生糸 29% 7895万ドル」 60% 1867年 中国輸出 綿花 絹製品 3% その他 その他 4% 10% 織物 綿糸 21% 6% 1867年 生糸 砂糖 8% 44% 1212万ドル 16% 蚕卵紙 艦船 18% 米 11% 武器 茶 日本輸出 19% 日本輸入 2167万ドル 物 20% 13% その他 109 1867年 中国輸入 9768万ドル 20% 7 中国の開港と日本の開国 45%

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日本史 高校生

徳川家の出来事A〜Fまでを年代の古い順に並ばなければいけないのですが、BFDAECの順であっていますか?教えて頂きたいです🙇🏻‍♀️

3 以下の問に答えよ。 A: 徳川家宣は、 朱子学者の(Ⅰ)と側用人の間部詮房を信任して、 政治の刷新をはかろうとした。 しかし、 徳川家宣は在職わずか3年余りで死去し、 そのあとを継いだ徳川家は満3歳であったため、 引き続き ( I )らが幕府政治を担うことになった。(I)は①長崎貿易で、 多くの金銀が流 出していたことを問題視し、これを防ぐために② 貿易額を制限した。 B:③関ヶ原の戦いで勝利したⅡは、1603年、④全大名に対する指揮権の正統性を得るための 征夷大将軍の宣下を受け、江戸幕府を開いた。1605年、将軍が世襲であることを諸大名に示すため、 子の(Ⅲ)に宣下を受けさせた。その後(Ⅱ)は駿府に移ったが、大御所として実権を握り続 け、大坂の陣で豊臣氏を攻め滅ぼし、その直後、大名の居城を1つに限り、⑤武家諸法度を制定して大 名をきびしく統制した。(Ⅲ)は、⑥天皇や公家が守るべき朝廷の運営などの基準を定め、娘を御 水尾天皇に入内させた。 C : 徳川宗家 (本家) がとだえると、 ⑦ 御三家の紀伊藩主であった(Ⅳ)が将軍になった。 ( N )は、29年間の在職のあいだ、諸政策を実行して②幕政の改革に取り組んだ。18世紀後半 は⑨幕藩体制にとって大きな曲がり角となった。 ⑩ 三都や城下町の町人地中心部に住む都市民衆は、零 細な棟割な側に住み、わずかな ① 貨幣収入で暮らしを支え、物価の上昇や飢饉、災害のときには、たち まち生活を破壊させた。 D : 幼少の徳川家綱を会津藩主で叔父の(V)が支えたことで、 社会秩序が安定しつつあった。 平和 が続く中で、 重要な政治課題となったのは、戦乱を待望する 12牢人や 「かぶき者」 への対策であった。 17 世紀後半には、政治の安定と経済の発展とを背景に(VI)が将軍となった。 ( V )の政治 は(VI)が(a)として支えた。 (VI)は代がわりの武家諸法度を出し、 13 幕府の統治理念 に変化があった。 また (VI)は、 1生類すべての殺生を禁じ、 捨子の保護なども命じた。 E 15 田沼意次が退いたあと、 徳川家斉の補佐として (b)に就任したのが、 白河藩主(VII)で ある。 国内外の危機がせまるのを感じて、飢饉で危機におちいった農村を復興することによって、幕府 の財政基盤を復旧し、 ⑩6 打ちこわしを受けた江戸の治安問題を解決し、 17 ロシアを中心とする 18 海外勢 力に対応するための 19 諸政策を実行していった。 IX SUPRA CRE F:徳川家は、 1635年、新たな武家諸法度を発布し、諸大名に法度の遵守を厳命した。 その中で、 大名には20国元と江戸とを1年交替で往復する制度を義務づけ、大名の妻子には江戸に住むことを強 制した。こうして()の頃までには、2幕府の職制についても整備された。 1637年、2島原 の乱後、幕府は、キリスト教に対してきびしい監視を続けていった。 問1 A~Fの文中(I) ~ (V)に入る人物名をそれぞれ漢字で答えよ。 IX 知・技 9

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日本史 高校生

至急です 日本史の問題で 『棄捐令とはどのようなものか教科書から30字程度で抜き出しなさい』 という問題があるのですが どこを抜き出したらいいのかわからないので教えていただきたいです。 よろしくお願いします

866 一正 ic 15 幕藩体制の立て直し てい とくがわいえなり 1787 (天明7)年、 徳川家斉が11代将軍となったころ、 1773-1841 寛政の改革 江戸で天明の打ちこわしがおこり、 幕府に衝撃をあ よしむね しらかわはんしゅ まつだいらさだのぶろうじゅう たえた。そのため, 8代将軍吉宗の孫で白河藩主の松平定信が老中にな 家斉を補佐した。 17. 革を進めた。 けんやくれい かび しゃれ p.171 定信は, 華美な生活をおさえるために倹約令を出すとともに、洒落本 1758-1829 定信は,吉宗の政治改革を理想として、寛政の改 を摘発するなど、風俗の取り締まりを強化した。 武士には学問と武芸を てきはつ 質実剛健な気風をとりもどそうとする一方、困窮した旗本・ 励して、 炭人を救済するために乗損査を出し、札差などからの借金を軽減した。 このころ、関東の農村から貧しい農民が江戸へ流入し、武家や町家の ぎょうしょう 奉公人になったり, 行商などを行ったりしてその日暮らしの生活をして でかせ きゅうり きのうれい いた。 定信は,出稼ぎを制限し, 旧里帰農令を出して江戸で定職を持た しゅそう ない者を故郷に帰し, 農業人口の確保につとめた。 また、各地に社倉や ぺいこく き きん きょうしゅつ かこい 義倉を設け, 飢饉に備えるために米穀を供出させてたくわえさせた ( まちにゅうよう 米)。 江戸市中でも, 町入用(町費)の節約分の7割を積み立て, 災害や飢 しちぶ つみきん、 いしかわじま にんそくよせば に備えさせた (七分積金)。 さらに, 江戸の石川島に人足寄場を設けた。 ゆしま せいどう りん しじゅく かんがく 学問を重視した定信は, 湯島の聖堂に付属した林家の私塾に官学とし しょうへいざか しての性格を持たせた (のち昌平坂学問所)。 そのうえで, 昌平坂学問所に しゅしがく かんせい いがく おいて朱子学以外の学問を講ずることを禁じ(寛政異学の禁) 学問吟味 がくもんぎんみ とうよう という試験によって役人を登用する新しい制度もつくった。 定信の厳しい政治は,しだいに江戸の民衆の不評をかうようになり, 一件などをめぐって家斉と対立した定信は,老中在職6年余りで退 陣した。しかし,七分積金制度など,定信の政策のなかにはその後も維 持されたものがあり、幕藩体制がつづくうえで大きな意味を持った。 はんせい 諸藩でも18世紀なかごろから藩政改革が行われ,特産物の増産と専売 制度によって財政の再建を ➡p.167 はかり,藩校を設立して有 ➡p.170 能な人材を育てるなど, 大 きな成果をあげる藩もあっ よねざわ た。 改革を主導した米沢藩 うえすぎはるのり ようざん の上杉治憲 (鷹山) 秋田藩 1751-1822 さたけよしまさ ほそかわ の佐竹義和, 熊本藩の細川 __1775-1815 1720-85 しげかた ◎めいくん 重賢らは名君と称された。 松平定信( おしすす せきでん D ③ 籍田の碑(山形県米沢市) 上杉鷹山が,自ら田を耕 さんこうぎょう 産興業をはかるなどの藩政改革を行った。 すことで農業の尊さを示した「籍田の礼」を伝える碑。 こうじょうかん しょく また, 鷹山は藩校 (興譲館)を創設し、 絹織物業の殖 ① ① 江 ② ら 45 た 第3

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日本史 高校生

至急です。 日本史の問題で ・関ヶ原の戦いの展開と結果を「東軍」「西軍」の語を使い、130字程度で説明しなさい。(p140) という問題がわからないので 回答をいただきたいです。 画像は教科書です。(p140) よろしくお願いします。

江戸幕府の成立 ごぶぎょう いしだみつなり うになった。豊臣政権の将来に危機感を持った五奉行の石田三成は, けいちょう だいみょう あいづ む ほん うえすぎかげかつ 1600(慶長5)年,家康が会津の上杉景勝の謀反を口実として諸大名をひ きいて関東に向かった機をとらえ,五大老の毛利輝元を盟主として兵を 1555-1623 もうり てるもと めいしゅ 1553~1625 せいぐん あげた (西軍)。 とよとみひでよし ひでより 豊臣秀吉の死後,その子秀頼が幼少であったことか 1593-1615 とくがわいえやす ごたいろう ら、五大老のひとりの徳川家康が大きな力を持つよ ➡p.131 1542-1616 とうぐん じゅうぐん 家康は, 従軍していた豊臣系大名の支持をえて軍を引きかえし (東軍)。 せきがはら 関ヶ原の戦いで三成らの軍勢をやぶり, 全国に対する支配権を確立した。 三成は京都で処刑され,輝元が120万石の領地を37万石に削減されるな ごく さくげん かいえき ぼっしゅう げんぽう ぽ ど,西軍に属した多くの大名は改易 (領地没収), 減封(領地削減),転封 (領地移動)などの処分を受けた。 ちょうてい せいい たいしょうぐん 1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ,江戸に幕府を開いた。 ➡p.83 えどばくふ いしん これを江戸幕府とよび, これから明治維新までの260余年間を江戸時代 ➡p.196 せ しゅう という。家康は,政権の世襲を示すため、 わずか2年後には将軍の地位 ひでただ ゆず おおごしょ を子の徳川秀忠に譲ったが,大御所と称し,政治上の実権をにぎってい 1579~1632 た。一方,豊臣秀頼は、ひきつづき大坂城にあって、秀吉の遺児として ろうじゅう うち老中など幕府の役 くにもと が国許に帰り、残りが er ばく大な費用を必要とした。 たとえば江戸時代後 かが 期の記録によると、加賀藩の行列は総勢2000人に

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