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日本史 高校生

この2つの答えはエとイであっていますか?

(2) 江戸幕府の組織のうち奉行についての説明で正しいのはどれですか。 ア 寺社奉行は大規模な寺院・神社の統制, 町奉行は江戸・大阪の市政, 勘定奉行は幕府財政と江戸周辺の 支配を担当した。 イ 寺社奉行は幕府財政と直轄地の支配, 町奉行は江戸の市政, 勘定奉行は寺院・神社の統制と寺社領の 支配を担当した。 ウ 寺社奉行は寺院・神社の統制と寺社領の支配, 町奉行は大坂の市政, 勘定奉行は幕府財政と直轄地の 支配を担当した。 エ 寺社奉行は寺院・神社の統制と寺社領の支配, 町奉行は江戸の市政, 勘定奉行は幕府財政と直轄地の 支配を担当した。 (3) 寛永文化の絵画の分野についての説明で正しいのはどれですか。 ア 狩野派の狩野探幽は朝廷の御用絵師となり高い位に就いた。一方, 大和絵の土佐光起は幕府の絵師として 高い位に就いた。 イ京都の俵屋宗達は大胆な構図により新しい装飾画を始めた。 代表作に建仁寺蔵の「雷神風神図屏風」がある。 ウ家康から京都鷹ヶ峰の地を与えられた本阿弥光悦は, 蒔絵などの調度品や楽焼の茶碗などに洗練された作品を 残した。 I 備前焼の酒井田柿右衛門は, 赤絵 (色絵の一種) の技法を完成させた。代表作は「色絵花鳥文大深鉢」で ある。

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倫理 高校生

2と3、答えが入れ替わっていませんか?

98 第 4 章 国際化と日本人としての自覚 3 日本における儒学の展開 1603年 徳川家康 江戸幕府を開く (265年間) ・・・戦乱の終結による世の中の安定 世の中に対し超然とした態度をとる仏教に代わり, 現実社会の人倫に主眼を置く儒教が定着 (1) 朱子学派 5代将軍綱吉 (元禄期) 文治主義により朱子学を官学とし儒学を奨励 →朱子学の考え方が、江戸幕府が統治体制を維持していく上で、都合が良いものであった。 いんげんじゅ 桂庵玄樹 室町時代の禅僧(臨済宗) 明で朱子学を学ぶ わい (1427~1508) 菊池・ 隈府 (熊本) で朱子学を講義→薩摩へ (薩南学派を形成) げんぞく - X (' ) 近世儒学の祖 禅僧-京都五山で朱子学を学ぶ。 ⇒還俗し儒学者へ はやしざん 林羅山 (2 ] 身分秩序の上下関係は天理にかなった秩序である。 (1583~1657) 日本朱子学 の祖 「天は尊く地は卑し,天は高く地は低し、上下差別あるごとく人にも また君は尊く民は卑しきぞ」 幕藩体制を支える封建的身分秩序の根拠となる。 つつし 『三徳抄』 (3 『春鑑抄』 日常生活の言動を敬んで, 天理 (永遠の秩序) を守り社会の秩序や礼儀 に従うよう修養に心がける。 大名(例 ) 平の神と朱子学の生の一致を配さて我を重んじる。 そんのうじょうい (1618~82) ( 神儒融合 ) →幕末の尊王攘夷に影響を及ぼした。 新井白石 (1657~1725) 幕政に参与 宣教師シドッチを尋問し「西洋紀聞』を著す あめのもりほうじゅう 雨森芳洲 (1668~1755) 対馬藩に仕える 朝鮮外交を担当・・・ 「誠信の交わり」 (友好外交) に尽力 かいばらえきけん 貝原益軒 (1630~1714) 福岡藩に仕える 朱子学の窮理の精神にもとづく博物学的研究書である 『大和本草』 や 『養生訓』・『和俗童子問』 などの教訓書・教育書を著す ・・・朱子学の観点からキリスト教を批判 西洋の科学技術は評価 (2) 陽明学派 なかえとうじゅ 中江藤樹 ・・・すべての人の心に天が与えた道徳の根本 普遍的な真理 すべての人を愛し、 すべての人を敬うこと ( 愛敬) ←時・処 (場所) 位 (身分) に応じた道徳の実践 形式より心の内面のあり方を説く ) (1608~48) 近江聖人 文化と伝 日本陽明学 の祖 『翁問答』 陽明学 晩年に傾倒 ⇒P.39 くまざわばんざん 熊沢蕃山 (1619~91) ⇒宇宙万物を存在させる根源を全孝という。 生まれながらに持っている心の本質・・・ 善悪を判断できる力(良知) それを自覚すること・・・良知を発揮すること ( =致良知) ) 「良知によって知り得たことを実践すること」 中江藤樹の門人師の「時・処位」の思想を継承 状況に応じた礼の実践 聖人の跡ではなく心を学ぶべきであると説く。 岡山藩池田光政に仕える。 治山治水に業績 環境保護の思想

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日本史 高校生

至急です。 日本史の問題で ・関ヶ原の戦いの展開と結果を「東軍」「西軍」の語を使い、130字程度で説明しなさい。(p140) という問題がわからないので 回答をいただきたいです。 画像は教科書です。(p140) よろしくお願いします。

江戸幕府の成立 ごぶぎょう いしだみつなり うになった。豊臣政権の将来に危機感を持った五奉行の石田三成は, けいちょう だいみょう あいづ む ほん うえすぎかげかつ 1600(慶長5)年,家康が会津の上杉景勝の謀反を口実として諸大名をひ きいて関東に向かった機をとらえ,五大老の毛利輝元を盟主として兵を 1555-1623 もうり てるもと めいしゅ 1553~1625 せいぐん あげた (西軍)。 とよとみひでよし ひでより 豊臣秀吉の死後,その子秀頼が幼少であったことか 1593-1615 とくがわいえやす ごたいろう ら、五大老のひとりの徳川家康が大きな力を持つよ ➡p.131 1542-1616 とうぐん じゅうぐん 家康は, 従軍していた豊臣系大名の支持をえて軍を引きかえし (東軍)。 せきがはら 関ヶ原の戦いで三成らの軍勢をやぶり, 全国に対する支配権を確立した。 三成は京都で処刑され,輝元が120万石の領地を37万石に削減されるな ごく さくげん かいえき ぼっしゅう げんぽう ぽ ど,西軍に属した多くの大名は改易 (領地没収), 減封(領地削減),転封 (領地移動)などの処分を受けた。 ちょうてい せいい たいしょうぐん 1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ,江戸に幕府を開いた。 ➡p.83 えどばくふ いしん これを江戸幕府とよび, これから明治維新までの260余年間を江戸時代 ➡p.196 せ しゅう という。家康は,政権の世襲を示すため、 わずか2年後には将軍の地位 ひでただ ゆず おおごしょ を子の徳川秀忠に譲ったが,大御所と称し,政治上の実権をにぎってい 1579~1632 た。一方,豊臣秀頼は、ひきつづき大坂城にあって、秀吉の遺児として ろうじゅう うち老中など幕府の役 くにもと が国許に帰り、残りが er ばく大な費用を必要とした。 たとえば江戸時代後 かが 期の記録によると、加賀藩の行列は総勢2000人に

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