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「は、はあ」
椅子から立ち上がった延は、預けていたバイオリンを受け取ると、 廉太
郎にピアノを勧めた。 言葉に甘えて太郎がピアノの前に座り直し、鍵
の上に指を伸ばすと、惚れ惚れとした口調では続けた。
「いい指をしている。 力強い 可動域も広い」
「早く、弾いてみろ」
されるがままに廉太郎は指を滑らせた。やはり曲はショパンの「夜想曲
一番』。掌がじっとりと濡れている。唾を呑んで緊張を追い払いながら、
曲に合わせて十本の指を鍵盤の上で遅らせる
冷や汗交じりに弾き終えたその時、延は、手を叩いた。
「君はなかなか体を動かすのが上手い」
笑んでいた。
①何を言われているのか、よく分からなかった。 顔を見上げると、延は薄
「楽器は音楽への理解力で弾きこなすものという誤解があるが、一番必要
とされるのは、的確に体を動かし、姿勢を保持し、滑らかに体重を移動さ
身体操作に他ならない」
子供の頃から体を動かすことが好きだった。まさか、こんなところで活き
てくるとは思わなかった。
「君。君は楽器の専攻は決めたか
「いえ、実はまだ・・・・・・」
「うがいい」
「教師として言っておく」 延は鋭い声を発した。 「バイオリンは避けたほ
「なぜですか」
突然の問いだった。 そもそも延自身がバイオリンを専攻している。 その
人の言とはとても思えなかった。
②延は一瞬だけ暗い顔を浮かべた。その時、教師としての仮面が剥がれ、
年齢相応の女性の素顔が聞いた気がした。だが、延はすぐにその表情を追
い出し、元の硬い表情を取り戻した。
「君の同世代にもないバイオリニストがいるが、あの子に巻き込まれ
てしまっては、君の芽が潰されかねないと思ってな。だから、君には別の
道を歩いてほしい」
教師の顔に戻った延は、ケースの中からバイオリンを取り出した。飴色の
銅がつややかに光るパイオリンは、学校に置いてある練習用のそれとは比
べ物にならない品格を備えている。 しかし、延もそれに負けぬ凛とした立
ち姿をしていた。肩にバイオリンを乗せ、延は続けた。
今、日本の西洋音楽はよちよち歩きをしているところだ。 あまりに人材
が足りない上、国の理解も薄い。 今、東京音楽学校が*高等師範学校付きに
なっているのは知っているだろう」
大きく頷くと、延はなおも続ける。
にょじつ
「師範学校の付属扱いは、国の西洋音楽への冷淡ぶりを如実に示している。
現状を打破するためには、有望な人材に活躍してもらうしかない。 瀧
君。君は、音楽は好きか。 人生のすべてを懸けることができるほど」
あめいろ
せんじゅば
人生のすべての口からその言葉が滑り落ちた時、部屋の中の空気が
一段重くなった。 その意味を考えれば考えるだけ、空恐ろしくなったから
だ。相手は日本の西洋音楽界を牽引するあの幸田延だ。この人を前に、軽々
口にできることなどありはしない。
喉から言葉が出ない廉太郎を見咎めるように、延は皮肉げに口角を上
げた。
突然のことだ。 致し方あるまい。だが、もし、 君が人生すべてを音楽に
懸けられると考えるのなら。 わたしが個人的にレッスンをしよう。 南
千住の橋場にわたしの家がある。 休日は家で過ごしているから、その時に
を見る わたしの家に楽器は一通り揃っている」
その代わり、教えるからにはみっちりとやる。 全身から気を立ち上らせ
ながら、延はそう口にした。
「覚悟が決まったら来い」 延はバイオリンの弓弦に沿わせた。 「ときに
瀧君、一曲、重奏をしよう」
ている。
どうやら延は長い西洋留学の間に、
面食らっていると、延は ④
向こう式の身振り手振りを覚えてきたらしい。
おい ハーモニー
「おいおい、音楽家が重奏を渋ってはならんぞ。 音楽の醍醐味は調和にあ
るのだからな」
それからは、延のバイオリンとの重奏を繰り返した。
延のバイオリンは融通無碍のようだった。 ある曲ではぐいぐいと旋
を引っ張り、ある曲では廉太郎のたどたどしい旋律を優しく包み込み、
またある曲では廉太郎の連打に挑みかかるようにバイオリンの音色が絡み
ついてきた。
「楽しかったよ、今日はありがとう」
延が去って一人になったピアノ室の中で、廉太郎は天井を見上げた。
圧倒的なまでの実力差を見せつけられたというのに体中に心地いい疲労が
のしかかっている。ふと鍵盤を見れば、廉太郎の汗で光っている。懐の
手ぬぐいで鍵盤を拭いて、 廉太郎は外を眺めた。 気づけば、外の上野の景
色は夕暮れに染まっていた。
(注) ○高等師範学校中等教育の教員
かつやぐるま
(谷津矢車『廉太郎ノオト』による)
から
さん
⑥太郎は天井を見上げた」とありますが、このときの廉太郎の心情を
説明したものとして最も適当なものを、次のアから工までの中から選びな
ア延の演奏と自分の演奏との圧倒的な差に、打ちひしがれている。
イ 日本の西洋音楽の第一人者である延との演奏で、自信を深め、音楽界
の発展のために尽力する自身の将来の姿を、思い描いている。
ウ圧倒的な延の実力を見せつけられ、楽器は音楽への理解力で弾きこな
「すべきだと言った延の言葉の意味を、強くかみしめている。
延との演奏で、自分の持てる力のすべてを引きずり出されたことによ
り、かつてないほどの充実感をおぼえるとともに、その演奏の余韻に浸っ
ひた