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国語 中学生

国語論理の展開のところで、③、④が分かりません。どちらか片方でもいいので教えて欲しいです。

の展開を整える ユネスコの調査によると、現在、世界で約二千五百の言 語・方言が、消滅の危機にあり、その中には、日本の方言も 幾つか含まれていて、私は、方言をその危機から救い、守る ことが必要だと考える。 方言には、次のような大切な力があ るからだ。 ② 一つ目の力は、物事を豊かに表現する力である。 例えば、 私の住む富山県の方言には、「きときと」という言葉がある。 この言葉は、特にとれたての魚の新鮮さや生きのよさを表す。 さらに、その語感からは、輝くような様子も感じられる。こ の言葉が使われた「富山きときと空港」からは、ソウルや北京 などに向かう便もある。このように方言は、共通語では表現 切れない微妙な様子も表現し、私たちの生活をいろどって くれる。二つ目の力は、人々をつなぐ力である。東日本大震 災の後、「けっぱれ東北」「がんばっぺ宮城」など、方言を使っ たスローガンが多く見られた。共通語でなく、その地方の方 を使うことによって、困難を共に乗り越えようという気持 ちが共有され、励まされた人も多かったという。 ペキン E 私は方言を守りたいと考える。 LJ 意見 根拠 意見

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大門4の問1を教えておしいです。(写真順番は画像のしたの真ん中にあるページどおりです。)

4 次の文章を読んで、あとの各問に答えよ。(*印の付いている言葉に は、本文のあとに [注] がある。) あなたは、誰かと対話をした経験があるだろうか。 会話ではなく、対話 である。(第一段) よほど特別の事情がない限り、私たちは日常的に会話をしている。 駅の キヨスクでチョコレートパーを買い、会社の守衛さんに挨拶し、職場で同 と打ち合わせをして、昼食時にショートメールで遠方の友人と近況を伝 えあい、帰宅して家族と今日のニュースについて話し合う。このどの場面 でも、私たちは会話をしている。そのいくつかは軽いやり取りであったり、 ただ楽しむためであったりする。他方、仕事の打ち合わせなどはかなり真 剣に、ときに厳しいやり合いをしなければならない。 (第二段) だが、このどれもが会話であっても対話ではない。(第三段) 対話とは、真理を求める会話である。 対話とは、何かの問いに答えよう として、あるいは、自分の考えが正しいのかどうかを知ろうとして、誰か と話し合い、真理を探求する会話のことである。ただ情報を検索すれば得 られる単純な事実ではなく、きちんと検討しなければ得られない真理を得 たいときに、人は対話をする。 それは、自分を変えようとしている人が取 り組むコミュニケーションである。(第四段) ショッピングや仕事でのやり取りは、自分の要望と相手の要望をすり合 わせようとする交渉である。 友人や恋人との会話は、よい関係を保ち、相 手を理解し、互いに話を楽しもうとする交流である。これらの会話は有意 かもしれないが、真理の追求を目的としてはいない。対話は、何かの真 理を得ようとして互いに意見や思考を検討し合うことである。(第五段) 私たちは日常生活の中で、ほとんど対話する機会がないのではないだろ うか。それは、真理の追求が日常生活で行われなくなっているからである。 だが実は、対話をしなければならない場面は、日常生活の中にも、思った よりもたくさんあるのだ。 (第六段) 仕事場でも、ただ当面の与えられた業務をこなすだけではなく、仕事全 体の方向性や意味が問われる場合、たとえば、「良い製品とは何か」「今は どういう時代で、どのような価値を消費者は求めているのか」「環境問題 に対して、我が社は頬かむりをしていていいのか」など真剣に論じるべき テーマは少なくないだろう。 家庭でも、子どもの教育をめぐって、 そもそ も子どもにとっての良い人生とはなにか、そのために何を学んでほしいの 親と子どもとはどういう関係なのか、子離れするとはどういうことか、 これらのことについて家族で話し合う必要はないだろうか。地域でも、ど のような地域を目指せばいいのか、住人はどのような価値を重んじている のか、以前からの住人と新しく来た人たちはどう交流すればよいか。本当 はこうしたことについて膝を突き合わせて対話する必要があるのではない だろうか。(第七段) 人生に関すること、家族と社会に関すること、政治に関すること、地域 での生活のこと、私たちはこれらのことをほとんど対話することなく、 日々を過ごしてしまっている。 そうした難しい議論は頭のいい人たちに任 せて、自分たちはせっせと働き、自分個人の生活だけを楽しめばいいのだ。 かつてはこう考える人たちもいた。しかし、そうした態度はすでに販売を 迎えている。私たちは、公共の問題にもう無関心でいられないし、自分個 人のあり方についても、いろいろな人から意見を聞いて考え直してみたい 1 6 ĭ

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大門4の問1を教えておしいです。(写真順番は画像のしたの真ん中にあるページどおりです。)

4 次の文章を読んで、あとの各問に答えよ。(*印の付いている言葉に は、本文のあとに [注] がある。) あなたは、誰かと対話をした経験があるだろうか。 会話ではなく、対話 である。(第一段) よほど特別の事情がない限り、私たちは日常的に会話をしている。 駅の キヨスクでチョコレートパーを買い、会社の守衛さんに挨拶し、職場で同 と打ち合わせをして、昼食時にショートメールで遠方の友人と近況を伝 えあい、帰宅して家族と今日のニュースについて話し合う。このどの場面 でも、私たちは会話をしている。そのいくつかは軽いやり取りであったり、 ただ楽しむためであったりする。他方、仕事の打ち合わせなどはかなり真 剣に、ときに厳しいやり合いをしなければならない。 (第二段) だが、このどれもが会話であっても対話ではない。(第三段) 対話とは、真理を求める会話である。 対話とは、何かの問いに答えよう として、あるいは、自分の考えが正しいのかどうかを知ろうとして、誰か と話し合い、真理を探求する会話のことである。ただ情報を検索すれば得 られる単純な事実ではなく、きちんと検討しなければ得られない真理を得 たいときに、人は対話をする。 それは、自分を変えようとしている人が取 り組むコミュニケーションである。(第四段) ショッピングや仕事でのやり取りは、自分の要望と相手の要望をすり合 わせようとする交渉である。 友人や恋人との会話は、よい関係を保ち、相 手を理解し、互いに話を楽しもうとする交流である。これらの会話は有意 かもしれないが、真理の追求を目的としてはいない。対話は、何かの真 理を得ようとして互いに意見や思考を検討し合うことである。(第五段) 私たちは日常生活の中で、ほとんど対話する機会がないのではないだろ うか。それは、真理の追求が日常生活で行われなくなっているからである。 だが実は、対話をしなければならない場面は、日常生活の中にも、思った よりもたくさんあるのだ。 (第六段) 仕事場でも、ただ当面の与えられた業務をこなすだけではなく、仕事全 体の方向性や意味が問われる場合、たとえば、「良い製品とは何か」「今は どういう時代で、どのような価値を消費者は求めているのか」「環境問題 に対して、我が社は頬かむりをしていていいのか」など真剣に論じるべき テーマは少なくないだろう。 家庭でも、子どもの教育をめぐって、 そもそ も子どもにとっての良い人生とはなにか、そのために何を学んでほしいの 親と子どもとはどういう関係なのか、子離れするとはどういうことか、 これらのことについて家族で話し合う必要はないだろうか。地域でも、ど のような地域を目指せばいいのか、住人はどのような価値を重んじている のか、以前からの住人と新しく来た人たちはどう交流すればよいか。本当 はこうしたことについて膝を突き合わせて対話する必要があるのではない だろうか。(第七段) 人生に関すること、家族と社会に関すること、政治に関すること、地域 での生活のこと、私たちはこれらのことをほとんど対話することなく、 日々を過ごしてしまっている。 そうした難しい議論は頭のいい人たちに任 せて、自分たちはせっせと働き、自分個人の生活だけを楽しめばいいのだ。 かつてはこう考える人たちもいた。しかし、そうした態度はすでに販売を 迎えている。私たちは、公共の問題にもう無関心でいられないし、自分個 人のあり方についても、いろいろな人から意見を聞いて考え直してみたい 1 6 ĭ

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至急お願いします💦 国語の文章問題です 7番の問いの答えがどうしても分かりません… 分かる方、教えてください🙇‍♀️ ※本文中に書き込みをしていて見えづらいかもしれません。すみません。

次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 古典がなぜ何百年、あるいは千年以上もの長い時間生き残ってきたの でしょうか。仮にそれがまるっきりつまらない、そしてなんの志もない ような低俗な作品であったら、おそらくたちまち廃って忘れられた。 ンザイになってしまうにちがいありません。つまり、こんにち「古典」 となって数百年の年月を生き抜いてきたのは、ひとえにそれが「おもし 「ろい」からにちがいありません。 その「おもしろい」というなかには、タンジュンにユーモラスでお もしろいというものもあるし、いろいろ含蓄のフカいことを述べてあ って興趣尽きないというものもありましょう。 あるいは諸国の珍しい世 間話などが集めてあって興味津々という意味のおもしろさもありまし きょうみしんしん ょう。というふうに、そのおもしろさは硬軟さまざまだとしても、必ず や、なんらかの意味でおもしろいと思った読者がたくさんいからこそ、 そしてどの時代にも尽きせず喜ばれ続けたからこそ、古典文学として 残ってきたのです。ここを忘れてはなりません。 ところで、ちょっと考えてみてください。 「古典」として残ってきた 作品が、何百年間も「おもしろい」と思われ続けてきたのはなぜでしょ うか。 すこしでも時代が違えば、考え方も生活環境も、なにもかも違ってい るから、同じ思いを共有することなんかできないのではないか、とそん なふうに思っている人も、もしかしたらたくさんいるかもしれません。 FIN 私は今まで、古典文学をたくさん読んできましたが、そのどれを読ん でも、一行また一行と読み味わっていくにつれて、それらの文学のなか に書かれている世界が、なんだか映画の場面でも見るように、脳裏に思 い浮かんできて、そのなかで主人公たちが、生き生きと動き出すのを感 じました。いや、文字をただ文字として読むのでなくて、そういうふう に、文字で書かれたことを立体的なイメージに変換して思い浮かべな がら読むと、これが偶然おもしろくなってくる、ということなのです。 がぜん はる らじだい たとえば「平家物語』、これは鎌倉時代にできた物語ですから、遥か たいらのむねもり わらのしゅんぜいやしき な昔です。しかし、そこに描かれている、たとえば平宗盛とその息子 たちとの今生の別れの場面など読むと、あまりにかわいそうな親子の情 たいらのただのり だん 愛に、非常に身につまされます。あるいは平忠度が一旦都を落ちかけ て、しかし、ごく僅かの手勢のみをつれて駆け戻ってくる。そうして藤 原俊成の邸に訪ねてきて今生の別れを告げくも もし勅撰集を選ぶと きがあったら、そのなかから一首でも採用していただきたいという願い を込めて、一巻の巻物を優成に託して去る、その潔い別離の場面な ど、非常にすがすがしい文章で、ここも何度読んでも目頭が熱くなりま 場面 す。それはどうしてなのでしょうか。 ちょくせんしゅう 人間の感情というものは、その時々で変化するものと、どう時代が変 わっても決して変わらないものと、両方あります。 a かれあって愛し合う、そういう恋の気持ちなどというものは、昔も今も 男女が魅 「変わらないもの」の代表です。どんな時代でも、やっぱり人を恋しく 思う気持ちには、変わりがありませんね。あるいは、親子が無理やり別 きっと いさぎよ

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