たち。
四 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。
新聞で毎日、誰かの言葉の一節を紹介するコラムを担当するよ
うになって、ずいぶんたつ。 引用する一節を探して、日々、言
葉の森をうろついていると、たまに言葉の貯金が増えてうれしく
なることもあるが、たいていは乏しくなった米びつの底をさらう
ときのような心細い気持ちでいる。
そういう思いとは別に、このところ言葉を選ぶことそれ自体が
しんどくなる日がある。戦争、感染症、災害、貧困、権勢の不正
と、気の塞ぐような記事と同じ紙面に並んで掲載されることも増
え、ふと頬が緩むような言葉、気を取り直せるような言葉を取り
上げにくいということもある。だが、それ以上に、②言葉そのも
のの惨状にめげそうになっている。
言葉がまるでうぶ毛をなくしたかのように、むき出しで人にぶ
つかるようになった。 言葉が、露骨な差別や捨てぜりふ、居直り
として礫のように投げつけられたり、アリバイや言い逃れ、時に
隠れみのとして巧みに操られたりする場面に、路上で、報道で、
頻繁に触れる。
同じことの裏返しともいえようが、言葉が現実の前でうなだれ
逆の光景もよく目にする。声を上げたところで何も変わらな
い、聞いてももらえないと、言葉の無力に打ちひしがれ、口をつ
ぐんでしまう人。 言葉に何かを託すことをあらかじめ断念した人
言葉の暴力と無力。 言葉の横暴と言葉の喪失。 一方に言葉であ
おる人たちがいて、もう一方に言葉の前で身をひく人たちがい
る。言葉が両端に裂かれ、イエスかノーか、オール・オア・ナッ
シングといった、両極端な形でしか出てこない。
私たちはさまざまな言葉に取り囲まれている。 本気で何かを訴
える、どうしても相手に届いてほしいという切実な思いから発せ
られるものばかりではない。漠然とした不安のためか、絶えずし
ゃべりまくる、書き込みをしまくる、時にはため息すら送ってし
まう、そんな言葉もあふれるほどある。 そしてSNSの普及によ
って、そうした傾向はいよいよエスカレートしてきている。 受け
取る側も、自分に向けられた言葉に反射的にメッセージを返して
しまう。言葉をいったんのみ込んで、口ごもり、自分なりにその
言葉と折り合いをつけようとする、そんなプロセスを経て言葉を
返すということがない。
私たちは、言葉が音として届けば、あるいは文字として送られ
れば、言葉が伝わったかのような錯覚に陥りやすい。 「わかり合
う」「通じ合う」「触れ合う」、そんな安易な言葉の洪水が、わか
ってくれて当然という甘えを生み、さらに言葉を通じにくくさせ
ている。理解してほしいという気持ちが高じてくると、理解して
もらえないときにはその反動で、「キレる」「ムカつく」といった
荒々しい言葉が投げつけられる。
しかし、言葉は単なるメッセージの媒体なのではない。言葉に
は言いたいこと(言葉の意味)だけでなく、酔いたいという気持
ちも含まれている。 それは「③言葉の肌理」 となって現れる。 対
話の場でふと何かが腑に落ちるとき、私たちは語りの整合性や合
理的根拠によってではなく、むしろその感触や肌理、口調や声に
よって、相手が本当に言いたい何かに気づかされることが多い。
言葉の背景にある体温や手応えに、どれだけ想像力を向けられる
かなのだろう。 それがないと、言葉の意味だけをむき出しのまま
ぶつけ合うだけになる。
わかりやすさや反応の速さが求められる時代、 大量の言葉を前
に、じっくり言葉と向き合い思考する時間も、吟味して言葉を選
ぶ心の余裕もなくなっている。 社会に、隙間という意味での「あ
「そび」がなくなってきている。 短絡的な言葉で片づけようとして
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