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理科 中学生

答えエです。なぜそうなりますか

[2] 陸上で生活する哺乳類には、カンジキウサギのように植物を食べ物とする草食動物や, オオヤマ ネコのように他の動物を食べ物とする肉食動物がいる。 (問) 図は、 ある地域における, 食物連鎖でつながっているオオヤマネコ とカンジキウサギについて, 1919年から1931年までの2年ごとの個 体数を示したものであり, は, 1919年の個体数を,は, 1921年か 1931年までのいずれかの個体数を表している。 ○とを, 古い年から順に矢印でつなぐと, オオヤマネコがカンジ キウサギを主に食べ、カンジキウサギがオオヤマネコに主に食べられ るという関係によって、 個体数が変化していることが読み取れる。 図 カンジキウサギの個体数 〔万] 9 0 (山口県) ● 24 オオヤマネコの個体数 6 [万 ] ○とを, 古い年から順に矢印でつないだ図として,最も適切なものを、次のア~エから一つ 選びなさい。 なお,この地域では, 1919年から1931年までの間, 人間の活動や自然災害などに よって生物の数量的な関係が大きくくずれることはなかった。( アカンジキウサギの個体数 〔万〕 2 4 6 [万] オオヤマネコの個体数 イ カンジキウサギの個体数 〔万〕 9 0 24 6 [万] オオヤマネコの個体数 ノジキウサギの個体数 ウ [万] 9 エカンジキウサギの個体数 〔万] 9 • 0 0 2 4 6 〔万) 数 オオヤマネコの個体数 0 2 4 6 〔万〕 オオヤマネコの個体数

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数学 高校生

125(2)の abcdの計算の仕方がよくわかりません 解説よろしくお願いします!

□125 腐食連鎖 次の文章を読み、以下の問いに答えよ。 植物が太陽エネルギーを用いて大気中の炭素から合成した有機物の一部は、植物を 直接とする植食動物や、さらにこの動物を食べる肉食動物の生命活動を支えるエネ 直接に食う食物連鎖の流れをたどる。一方, 植物が合成した有機物の一部は、枯れ ルギーとして消費されながら、生食連鎖(植物生体を出発点とし、生きている生物を 業や枯れ枝などとして地表に堆積し、動物の遺体や排出物とともに、微生物などが分 解する腐食連鎖に取り込まれる。 このように、生態系を構成するそれぞれの栄養段階 をつなぐ食物連鎖は、生食連鎖と腐食速鎖から成り立っている。 下図は、これらの を模式的に示したものである。 生食連鎖 純生産量 総生産量 (ア) (イ) 摂食 (ウ) 成長量 (生産者) 生産量 (エ) (オ) 摂食 成長量 (カ) 枯 不消化排出量 死 量 (消費者) 腐食連鎖 (分解者) ある照葉樹林では,総生産量の70%が生産者自身の(ア)として消費されていた。 また1ha あたりの1年間の(イ)は60kg, 同じく枯死量は10800kg,現存量の 増加量 (成長量) は 3540kgであった。 この森林で1年間に生産者自身の (ア)とし て消費された有機物の量は,1ha あたり (a) kg, 純生産量は(b)kgであり, この純生産量のうち植食動物に摂取される量は (c) %である。 また、この森林に おいて生産者から腐食連鎖に流れる有機物の量は, 生食連鎖に流れる有機物の量の (d) 倍である。 (1) 図のア~カにあてはまる適切な語句を,下の語群からそれぞれ選べ。ただし、同 じ語句を何回選んでもよい。 また,図のアイは文中のア, イと対応している 図中の枠の面積は実際の値とは異なる。 〔語群] 総生産量, 純生産量, 光合成量,呼吸量, 成長量, 被食量, 同化量, 死亡量, 捕食量, 現存量 (2)図を参考にして、文中のadに適切な数値を入れ、文章を完成させよ。 ただし、 答えに小数を含む場合は,答えを四捨五入して小数点以下第1位まで書け。 (京都大)

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現代文 高校生

愛知医科大学看護学部の公募推薦の過去問です。 答えがないので、答えを出して欲しいです。お願いします🙇🏻‍♀️🙇🏻‍♀️

国 びまん 令和六年度 看護学部学校推薦型選抜(公募制) 基礎学力試験問題用紙 囲 次の文章は、一九九〇年に出版された山崎正和の『日本文化と個人主義』の一節です。この文 章を読んで、後の問に答えなさい。 文化は、これまで国家や民族という観念と強く結びついてきた。そして、人間の歴史を振返っ てみると、不幸なことに国家や民族の自覚はつねに対立抗争の意識とつながってきた。ひとつ の社会のなかで、個人もまたお互いに争うことがあるが、とりわけ国家や民族は、お互いに争う ことで自分自身をつくりあげてきた。その結果として、文化という特性はただの個人の特性以上 に、とかく他者との比較、対立の観点から考えられがちになる。じっさい、今日の経済マサツ や、つい近年までの世界戦争の現実を振返ってみても、ひとが自国の文化、他国の文化をあげ つらうときには、つねに何らかの意味の優越感や、国家主義的な自己主張の意識が伴っていた。 そして、そういう優越感が、たとえば敗戦といった現実によって崩れたとき、今度は極端な自己 卑下が社会に瀰漫するという事実は、多くの日本人の記憶に新しいことだろう。 こうした事情からして、文化論には、1二つの避けがたい危険な傾向が伴っているといわねば ならない。その第一は、過剰な特殊化の危険である。文化を考える場合には、他民族、他国の文 化と比較して考えがちであるので、どうしても両者の共通性よりは、ひとつの文化の異質性を強 調して考えることになる。 つい昨日まで文化的に じっさい、日本の場合、過去の文化論はしばしば民族主義や国粋主義と手を結びがちであった イクセプショナリズム し、アメリカの場合でも、アメリカ文化の「例外主義」という思想が、長らく見え隠れに受け 継がれてきたようである。ユダヤ人の「選ばれた民」の意識、ドイツ人の民族的な使命感といっ たものは、自国の文化を過度に特殊化し、他国との違いを強調することから生まれてきたが、 ③こうした使命感はいったん裏返ると劣等感に変貌する。 高村光太郎という詩人は、若いころフ ランス留学から帰って、日本の国の貧しさとその精神の狭さを嘆いて、「根つけの国」という自嘲 的な詩を書いたことがあった。しかし、彼が本性において強烈な愛国主義者であり、第二次大戦・ 中には過激な祖国讃美の詩を書いたことは、同時代を生きた日本人なら誰もが知る事実だろう。 とかく異文化との劇的な接触は、精神の単純な人物にとっては、自国の文化について過度な自尊 心を誘い出すか、逆に過剰な劣等感を刺激するものであるようにみえる。 そして、いずれの場合でも、そうした特殊化は、個人が自分の存在や行動について振返るとき、 奇妙に気持ちを安らがせてくれる支えになる。自分とは何か、7自己の実質は何かということは、 もともとたいへん難しい問題であり、簡単には答えが出ないものであるが、ひとは生きるために その答えを欲しがりがちである。そのさい、いちばん安易なやり方は、自分がどういう仲間に属 しているかを実感して、それを語ることで自己の中身を言い表わすことだろう。そして、自分 がどういう仲間に属しているかを振返るとき、その仲間の範囲が狭くて、他の集団と対立してい ればいるほど、自分自身の世界のなかにおける位置は明確になる。ここでもまた、文化論のひず みというものは、人間性の悲しい弱さに深く根ざしているといえそうである。 【

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