歴史
中学生
解決済み

足利尊氏は、どうして京都に室町幕府を開いたのですか?

天皇や地形と関係あるんですか??

明日までに教えてください!!

お願いします🙏♡♡

(画像は教科書です。意味無いかもしれませんが😅)

社会 歴史 中学生 室町幕府 室町時代 鎌倉幕府 鎌倉時代 足利 足利尊氏 京都 室町 建武の新政 南北朝時代 教えてください

回答

✨ ベストアンサー ✨

ひと言で言いますと、京から動けなかったから、
ということになるでしょうね。

当時、尊氏が征夷大将軍に就く直前、
後醍醐天皇の招きに応じた北畠顕家が、二度目の出兵を始めました。
顕家は、一度目の出陣のときに、
尊氏を九州にまで追い落とす切っ掛けを作っていますので、
後醍醐天皇は万感の思いで、顕家を呼び寄せたわけですね。

顕家は、後醍醐天皇の期待通りの活躍をして、
鎌倉にいた足利義詮を打ち破り、補佐役の斯波家長を敗死させます。
さらに上洛を続ける顕家は、迎え撃つ高師冬を美濃で撃破しました。
これが開幕の1338年1月のことです。

無敵を誇る顕家は、足利方の勢力を排除しながら伊勢へ進み、
伊賀、大和を抜けて、後醍醐天皇と合流するのです。
強敵が間近にやってきたために、尊氏は京から動けなくなりました。

同じ年の2月になりますと、顕家は京を目指して北上を開始します。
これまで散々に負けている尊氏は、あとがないこともあって、
側近中の側近・高師直に、ありったけの軍勢をつけて、送り出します。

常勝の顕家と、負けられない高師直は、般若坂で激闘を始めました。
両軍による死闘は、やがて足利方の勝利に終わるのですが、
それでも顕家は、南朝の先陣に立って戦い続け、
5月に和泉の石津で戦死するまで、連戦をこなしていました。

尊氏が征夷大将軍に補任されたのは、
それから3ヶ月後の8月のことです。
顕家は討ち死にしましたが、南朝には顕家の父・親房と、
顕家が鍛え上げた軍勢が、まだ残っています。
尊氏としては、そのような剽悍な軍勢を見過ごしてまで、
鎌倉に出向いて、将軍職に就くことはできなかったのでしょうね。

*室町幕府の開始には、建武式目を定めた1336年説もあります。
こちらの場合でしたら、
光明天皇(北朝)と後醍醐天皇(南朝)が、ともに京にいたためでしょうね。

長々とすみませんm(_ _)m

ゲスト

ありがとうございました!

私の知識では分からない事が多かったです😅
でも、詳しくお答えいただきありがとうございました!
感謝です😭♥

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