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現代文 高校生

文章の意味が分かりません。 単語とか調べたものの、筆者の伝えたいこと、 各段落の内容が分からないので分かりやすい言葉で教えてほしいです。 問題の解説が掲載されていないため、漢字問題以外、解説お願いできませんか?🥺 シャーペンが私の、間違っていたとこのみピンクで正解を示して... 続きを読む

た。 問4 傍線部 (3) 「このことを、なぜわれわれは素直に認めることができないのだろうか」とあるが、この問いに対する筆者 考えとして最も適切なものを、次の①~⑥のうちから一つ選べ。解答番号は2 ① 他者に対して心を開くことは危険を伴うことだから。 ② ひとひととして向き合い、関係を構築すること自体が稀なことだから。 自立した主体の確立こそを理想とする社会の中で育ってきたから。 ④他者との関係性を損なわないためには、互いに適度な距離をとることが必要だから。 ⑤ 関係だけでなく、個人の能力も自分の本質を為すものとして無視できないから。 upt 解答番号は、第二間で 【古文】あるいは【現代文】 のいずれを選択した場合でも1~25です。) 第一問 次の文章を読んで、設問 (問1~問10)に答えよ。 ひとりの人間と、彼/彼女が最初に出会うことば 〈言語〉との関係は、自明であり必然的であるというよりはるかに、ある種 の偶然と事故によって支配されている。ひとりの人間がその誕生時において引きずる言語的ケイブそのものも、すでに複雑で錯 した経路と水脈をかかえている。そうだとすれば、ことばの獲得とは、生得的な関係によるAなものではなく、あ ある種の根源的な喪失と離脱のなかから再発見・再獲得されるなにかであることになる。そのときことばは、私たちの生地ではな く、移住地であるのかもしれないのだ。 もしそのように考えることが許されるなら、ことばは私たちの存在を根源的に決定づけるなにものかであることをやめる。こ とばと私たちとの関係のなかに、A な帰属関係所有関係を前提としない、 旅と移住の運動性が生まれはじめる。こ とばはそれ自体として説明されるのではなく、それが言語的な未発の意識とのあいだに保存する記憶や痛みや欲動のほうから 定義され、そのことによってことばは間言語的言語外的な認識によってつねに流動の渦のなかに置き直される。 私たちはみな、自分自身の言語的な存在のかたちを、ことばという場に住みつかせるのだ。言語を な手掛かり とせずに存在する自分自身というものがあって、それをあらためてことばという異土に移り住まわせる。 そのとき、われわれが ことばを使うという行為は、本来的にすでに移住の行為、移民の行為だということになる。私たちはそのようにして日本語の世 へと移住した。 さらにいえば、私たちはそのようにして、日本語話者としての「日本人」へと移民した。 ブラジルでは、それはふつう 「グラフィチ」と呼ばれる。 街路の壁々に描かれた、奔放な落書きのような風刺絵。 そもそもイ タリアでに傷をつけて書かれた「掻き文字」を意味する考古学用語が、日常の街路の壁の落書きをさすことばへと転用 された「グラフィティ」 (Graffitti) を、そのままブラジルのポルトガル語風に発音すれば「グラフィチ」。この国の街で、グラ フィチはあらゆる通りと路地とに満ちている。消されても消されても、人々は色とりどりのスプレーをふたたび持ってきては、 知らぬ間に家々の商店の壁、シャッターを目呟くばかりの想像力の氾濫によって色と線で埋め尽くしてしまう。 書きが文字だけであれば、それはふつう 「ビシャソン」である。 独特の字体に、符牒のようなことばの断片が踊り、かぶ 文字がや虫のかたちに変容してきだし、壁の平面に陰影の凹凸が生まれ、ことばに色と風合いとかたちが備わりはじ める。俗っぽいことばや政治的なスローガンを書き連ねる(「ビシャール」=壁に落書きを描くだけのビシャソンにまじって、 時々はっとするほど時的な数行が、うす汚れた壁面に踊っていることもある。 ブラジルのグラフィチやビシャソンの世界の豊さを、ブラジルを訪ねるはるか以前に私がはじめて知ったのは、デニス・ テッドロックの詩集「夢の暦の日々』のなかの記述からだった。 ニューメキシコのズニ族や、グアテマラのキチェ族の口承文化 神話の研究で知られる北米の人類学者・民俗学者テッドロックは、ブラジルのカンピーナス市に滞在して特異な詩集のコウソ ウを練っていたとき、町の落書きのひとつに印象的な詩句を発見する。 彼はそのポルトガル語の詩句を、こう写し取ってい VAI-SE A PRIMAVERA QUEIXAS DE PASSAROS, LAGRIMAS NOS OLHOS DOS PEIXES テッドロックが住んでいた家からわずかに二プロックほど離れた路地の壁に書かれていた、このビシャソンの飛び跳ねる奔放 筆跡を想像しながら、私はすぐにテッドロックもおそらく気づいていない〉 この詩句の出自を理解した。 24一般入試A問題 (2024AG-B-1 (2024AG-B-2) ② 介護する 不十分さが解消されるため、その関係を豊かにすることに注力 介護が人間に向けられたものとなり、その人間の豊かさに寄与するものとなるためには、人間の価値を能力から切り離 で捉えた上で、介護する者と介護される者の間に心が開かれた関係が形成される必要がある。 介護は介護する介護されるという立場が明確であり、その主体は介護される者であるため、介護される者が介護とい う関係を受け容れることを待つことしかできない。 介護する者と介護される者の間にひととひととの個別的関係が築かれるためには、それぞれが主体と客体としての役割 をバランスよく果たしつつ、対話の機会を十分に持つ必要がある。 春がゆく鳥の嘆き 涙が魚の目に 行く春や鳥啼き魚の目は 巨) primavera não nos deixe passaros choram wwwwww (注) ばしょう 「奥の細道」の矢立初めの句としてよく知られたこの芭蕉の詩句が、ブラジルの地方都市の路地の壁に優美に踊っているの を想像して、私は不思議な興奮にとらえられた。芭蕉の句が、 地球の対地点にまでたどりつく三百年をこえる時の道程のなか 経験した無数の声と文字による橋渡しの過程に携帯用の筆入れと墨壺である矢立」からとりだされた筆記用具によって 俳聖の手帖の表面に走った毛筆の軌跡が、時を超えて、南米の植民都市の街路の壁の、スプレーによる躍動する落書きへと転 写されるという、筆跡の機知に満ちたはるかなる旅程に。 このピシャソンとなった芭蕉の句において、 過ぎゆこうとする「春」はもはや日本的な春の惜別の感傷を宿してはいない。 プ ラジルの春とは、いったい植物的な陰喩として測られるものなのか、それとも生き物や食べ物の推移として感知されるものなの それすらもはや判然とはしない。ここで悲しく啼く熱帯の鳥とは? アマゾン川の獰猛な魚の目に溜まる泪とは? 日本語 の俳諧が、ポルトガル語の Haikai へと転生するあいだに、ひとつの文化が感情の構造として宿していた意味と感覚の連関の統 一体が破れ、異形の、しかしみずみずしい力にあふれた別種のポエジーが、一気に侵入する。 自宅の近くの壁にお気に入りの落書きを見いだしたテッドロックは、たしかにこの詩句の古典日本的起源を知ることはな かったかもしれない。しかし「夢の暦の日々」という詩集が示すように、彼はブラジルにおいて経験する日常的な出来事と、そ の反映としての夢のイメージとを、彼がよく知るマヤ=キチェ族の暦の形式に置き換えられた目録のなかに書き込んでいった。 「一の鹿」の日にはじまり 「一三の死」の日で一回転する精緻なマヤ暦のなかで自らの日常と幻想とを反芻することで、彼は近 代世界を統べる日常の時間から離脱し、先住民の生きてきた別種の暦との連続性の感覚のなかに入ってゆく。 人類学という実践 そのものが、異なる時間性の境界を越えてつかのま生きる実践であり、自らがフィールドにおいて生きたはずの別種の時の充足 をふたたび近代的な時間の支配するアカデミーのなかへと回収してしまう逆説的な行為であるからこそ、人類学はつねに幻影 夢の残滓を「詩」として、フィールドノートと民族誌の余白に分泌するほかはない。 そして、テッドロックの想像力のなか に堆積した、そうしたヨジョウとしてのポエジーの氾濫が、ポルトガル語となった芭蕉の詩句による無意識の刺によってうな がされたものであることは、かえって芭蕉の転生としてのビシャソンの力を示している。 ハイカイは、ここでたしかに、異土に 移住して別種の「時」と季節を渡りながら、 ことばと文学がたどる一つの真実の旅の道程を見事に示している。 ブラジルにおいて、俳句をブラジル時のゼンエイ的な運動へと架橋し、芭蕉の評伝的なエッセイを書いた詩人がパウロ・レミ ンスキーである。姓からも察せられるように、彼の祖父母はポーランド系の開拓移民で、さらに彼の母親には黒人の血統も流れ こんでいた。ポーランド系ムラート〈黒い混血児〉のブラジル人。 この特別のケイフの混合に、レミンスキーは大いなる誇りと 刺を感じていたという。(中略) クリチバという日系人も多く住むブラジル南部の街に生まれ育ち、流謫の「日本」と早くから出逢い、若いときに日本語を習 得したレミンスキーが芭蕉と出会うのは、かならずしも驚くべき偶然とは言えなかったかもしれない、とわかる。そしてポーラ ンド系ムラートのブラジル人によって書かれた、 ポルトガル語による唯一の「芭蕉伝」は、やはり「奥の細道」の冒頭における 俳聖の漂泊の心持ちを伝えることからはじまる。あのビシャソンにもあった「奥の細道」の矢立初めの句が、ここでも引用さ れているのだ。 レミンスキーによるこの句のポルトガル語ヴァージョンはつぎのとおりである。 lágrimas no olho do peixe (28) (2024AG-B-3) (2024AG-B-4)

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「そんなつまらぬこと」はどういうことですか?

2 評論 294 m 文とは思われるが、あれほど自分を動かした美しさはどこ に消えてしまったのか。消えたのではなく現に目の前にあ るのかもしれぬ。それをつかむに適したこちらの心身の る状態だけが消え去って、取り戻す術を自分は知らないの かもしれない。こんな子どもらしい疑問が、すでに僕を途 方もない迷路に押しやる。 僕は押されるままに、別段反抗 はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少し も疑わしい性質を見つけ出すことができないからである。 だが、僕は決して美学には行きつかない。 美学に たど ④ 確かに空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るの n やら、石垣の苔のつきぐあいやらを一心に見ていたのだし、 鮮やかに浮かび上がった文章をはっきり辿った。よけいな ことは何一つ考えなかったのである。 どのような自然の諸 条件に、僕の精神のどのような性質が順応したのだろうか。 そんなことはわからない。わからぬばかりではなく、そう 55 いうぐあいな考え方がすでに一片の洒落にすぎないかもし れない。僕は、ただある充ち足りた時間があったことを思 いままに書き始めているのである。 ⑩ けんこう 『一言芳談抄』は、おそらく兼好の愛読書の一つだった のであるが、この文を『徒然草』のうちに置いても少しも つれづれぐさ 遜色はない。今はもう同じ文を目の前にして、そんなつま らぬことしか考えられないのである。依然として一種の名 5 い出しているだけだ。自分が生きている証拠だけが充満し、 倒置 山王権現 (日吉大社) こけ はじまり *ほうが 51

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共通テストの国語でらこういう問題は生徒 Aが言ってること違うと思ったら、生徒Bはそうだね。と賛成してるので読む前に違うとしてしまっていいものですか? そこはあまり関係ないですか?

9 問5 次に示すのは、本文を読んだ後に、五人の生徒が一茶の浅」 のうちから一つ選べ。解答番号は 生徒A|「茶の湯」に関しては、日本史の資料集で茶室の写真を見たことがあるというくらいの知識だけど、 茶室は狭くて質素な空間だね。筆者は、その無造作なさりげなさの裏に、洗練の度合いを深めようとする茶人利休 の強烈な意識を見て取っているんだね。 生徒B|そうだね。茶室は小さくて最小限のしつらいしかない簡素な空間だからこそ、その場に集う人々が そのしつらいに込められたメッセージを読み解いたり、膨らませたりする自在なイマジネーションの共有が可能に なったんじゃないかな。 生徒C||それが、筆者の言う「見立て」だね。「見立て」とは、たとえば水盤に浮かべた桜の花びらという最 小限の表現を解釈することで、ぞの場に集う人々が皆、満開の桜の下に座っているような幻想を膨らませ、共有す ることを言うんだね。 生徒D- ーなるほど、できる限り何もしないということによって、目の前の現実を超える虚構世界の幻想を呼 び込み、共有することができると当時の茶人たちは考えていたということだね。だからこそ、簡素さに美が宿ると いうわけだ 生徒E- 庭に咲き誇る朝顔をすべて摘み取ったうえで、茶室にたった一輪の朝顔を生けて秀吉をもてなした という利休の演出も、一輪の朝顔がそれを見る人の感覚に直接訴えることで豊かなイマジネーションをもたらすと いう茶の湯の美学を伝えているんだね。

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現代文A ミロのヴィーナスです。 15行目の「そうした関係」とは何を指しますか? 回答よろしくお願いします。

なぜ「真の原形を否認 したい」のか。 真の原形を否認したいと思うだろう、まさに、芸術というものの名において。 O ここで、別の意味で興味があることは、失われているものが、両腕以外の何も のかであってはならないということである。両腕でなく他の肉体の部分が失われ ていたとしたら、僕がここで述べている感動は、恐らく生じなかったにちがいな い。例えば、目が潰れていたり、鼻が欠けていたり、あるいは乳房がもぎとられ ていたりして、しかも両腕が損なわれずにきちんとついていたとしたら、そこに は、生命の変幻自在な輝きなど、たぶんありえなかったのである。 のなぜ、失われたものが両腕でなければならないのか? 僕はここで、彫刻にお torso トルソ リア語)頭部、 を持たない、 けるトルソの美学などに近づこうとしているのではない。腕というもの、もつっと そ 切り詰めて言えば、手というものの人間存在における象徴的な意味について、注 の彫像。 目しておきたいのである。それが最も深く、最も根源的に暗示しているものはな んだろうか? ここには、実体と象徴のある程度の合致がもちろんあるわけだが、 それは、世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段であ 「そうした関係」と 何を指すか る。言い換えるなら、そうした関係を媒介するもの、あるいは、その原則的な方 式そのものである。だから、機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用い た比輪はまことに美しく聞こえるし、また、恋人の手を初めて握る幸福をこよな ヒュ くたたえた、ある文学者の述懐は不思議に厳粛な響きを持っている。どちらの場 Sアイロニー irony 合も、極めて自然で、人間的である。そして、例えばこれらの言葉に対して、美 肉。反語。 術品であるという運命を担ったミロのヴィーナスの失われた両腕は、不思議なア こよなく 4ロニーを呈示するのだ。ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる 手への夢を奏でるのである。 口 葵でる 目演奏 清岡卓行。一九ニ二年(大正=)||二0O六年(平成18) 中国遼 寧省大連(ターリエン)に生まれた。詩人、小説家。詩と小説を並行させる創作活動を通じて 夢と現実の関わりを描く。主な著作に、 詩集『氷った焔』『ひとつの愛』、小説『アカシヤの大連』 『海の瞳』、 評論『好情の前線』などがある。「ミロのヴィーナス」は、『手の変幻』(-九六六年刊)に発表。本文は の変幻』(一九九〇年刊)による。

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22行目のそのようなとはなんですか?🙇‍♀️

(出典 15 制0 把握するための手助けとなってく る n い Nn t 村上陽一郎 『文明のなかの科学』 「文明」の建設 C 言うまでもなく(civil)という語は、ラテン語の《civis》もしくは《civitas》から脈生でした語で、それらは「市民」あ るいは「都市」と関わり合いのある語である。したがって、(civilization》を直訳すれば「都市化」あるいは「市民化」 ということになろう。しかし、ここで「都市」や「市民」として象徴されているのはキュウキョク的には「人為」と いうことであろう。そして、その「人為」に対置されているのが「自然」である、というのが、「文明」という概念 についての私の基本的なカイシャクである。 そうだとすると、『文明」という言葉が伝えようとする根本的な原理は「自然の人為化」ということになるだろ う。実際、「文明」という言葉が誕生してみると、かつて歴史の遠い過去にも「自然の人為化」を図った例がいく つか見いだされると考えられた。そこで「エジプト文明」、「インダス文明」、「中国文明」あるいは「メソポタミア 文明」という表現が使われるようになった。もちろん言うまでもないが、それらは本来は「文化」であって、「文 明」ではなかった。 3そして再び言うまでもないが、「文化」のヨーロッパ語である(culture》の語源は本来「農耕」である。そして「農 耕」は「自然に対する人為の働き掛け」そのものであった。瀧概を利用しての穀獅の単品種農耕栽培と、その収穫 a、 つ 物の暗藤と計画的分配とが農耕社会の特徴であるとすれば、農耕社会つまりは「A 」は、「人為」と「自然」と が対置された上で、「人為」が「自然」を自然のままにホウチせず、そこに介入し、手を加える最初の試みであっ たということができる。 バ(e しかし、それと同時に農耕社会は、栽培、貯蔵と分配という、職員の生死に関わる操作へのアクセスの距離 に応じた、さまざまな制度や犠構、 あるいは慣習を、その人間集団のなかに作り出したのであった。そのため には、記録の必要も生まれ、文字や記号の使用もほとんど必然的になる。一般に「B」という概念は、とり わけそれを人間の集団に限定した上で使う限りでは(つまり、サルの「社会」あるいはアリの「社会」というように その概念を拡張しないという制約の下では)、こうしたもろもろの体制が具わった集団に対して、初めて用いら a| れると言ってよく、現在の社会学でも、それを「社会」という概念の基礎においた上で、そこからさまざまな概 念の拡張をも評容していると考えられる。そしてまた、そのような「社会」のなかに存在する、宗教的、政治的、 経済的、慣習的、言語的、倫理的、美学的……な制度や機構や、それらを支える価値観の艦猛を「文化」と呼ぶ N C

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教えてください

0政治小説 明治立意制度が整わない 時期、自由民権運動の影 響の下に、政治への理想 や夢に向けて書かれた小 問題>次の問いに答えよ。 仮名垣魯文の戯作の代表作で、牛鍋店に集まる客の話題や風俗を写 実的に描いた作品は何か。 文学が初めて広い社会 2織田純一郎がリットンの著作を訳した、翻訳小説の代表作は何か。 に目を向けたという点で 注目されるが、作品自体 3 矢野龍渓の、スパルタの民主政治の勝利を描いた政治小説の代表作」 の独立した価値は高いと はいえない 弱小民族の独立運動をロマン性豊かに描いた、政治小説「佳人之奇 遇」の作者はだれか。 没理想論争 明治1+回ー二十五年間 (1八九一~九二)、坪内 遺と森鴎外の間にかわ された論争 遺海が写実主義の立場 から「没理想」論を主張 したのに対して、鴎外は ハルトマンの美学により 理想と美を重んずる立場 から反論した。 5@春のやおぼろの別号をもつ、「早稲田文学」の創刊者はだれか。 この人の、写実主義を提唱した先駆的な近代文学理論書は何か。 Oその理論の実践として、明治初期の書生の風俗を写実的に描いた作 6@ロシア語を学び、ツルゲーネフの翻訳「あひびき」で清新な口語体 を見せた作家はだれか。 この作者が言文一致体で書いた、本格的な近代写実小説の先駆となっ た作品は何か。 リアリズム。現実をあり のままに表現すること。 遺は「模写こそ小説の 真面目なれ」と唱えた

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赤色の部分を参考にして、「脚」の持つ意味を教えていただきたいです

14:13 C@ 70% 安全ではありません- naka-h.ibk.ed.jp 0評論1| 18 19 ミロのヴィーナス ちに襲われるのだ。選ばれたどんなイメージも、既に述べたように、失われていること以 上の美しさを生み出すことができないのである。もし真の原形が発見され、そのことが疑 いようもなく僕に納得されたとしたら、僕は一種の怒りをもって、その真の原形を否認し 多なぜ「真の原形を否認 したい」のか。 たいと思うだろう、まさに、芸術というものの名において。 を ここで、別の意味で興味があることは、失われているものが、両腕以外の何ものかであっ てはならないということである。両腕でなく他の肉体の部分が失われていたとしたら、僕 がここで述べている感動は、恐らく生じなかったにちがいない。例えば、目が潰れていた り、鼻が欠けていたり、あるいは乳房がもぎとられていたりして、しかも両腕が損なわれ ずにきちんとついていたとしたら、そこには、生命の変幻自在な輝きなど、たぶんありえ なかったのである。 なぜ、失われたものが両腕でなければならないのか? 僕はここで、彫刻におけるトル oLミ> torso(rタ リア語)頭部、腕、脚 を持たない、開体だけ の彫像。 ソの美学などに近づこうとしているのではない。/腕というもの、もっと切り詰めて言えば、 手というものの人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。そ れが最も深く、最も根源的に暗示しているものはなんだろうか? ここには、実体と象徴 のある程度の合致がもちろんあるわけだが、それは、世界との、他人との、あるいは自己

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問題提起の後は筆者の主張が来ると思うんですが,筆者の主張の部分ってどこですか?? 問題の答えになるのは根拠ですよね?

また、「たしかに」以外にも、もちろん」「なるほど」「むろん」なども譲歩の合図です。こちらも覚え ておいてくださいね。 Oと@は、反対の意見です。 は、主張の根拠です。 Cl「たしかに」「もちろん」「なるほど」「むろん」は、「譲歩」の合図である。 それに続く「しかし」などの逆接の接続表現の後に、「筆者の主張」が書かれている 次の文章を読んで、後の問いに答えよ。 日本人は修行が好きだ。歴史物語でも伝記物でも、努力した者が高く評価される。一種の因果応 報の思想かもしれない。高じて敗者にさえ独特の美学を見ようとする。むろん、それはそれで独自 -(劇作法)を生み出した。梶原一騎の劇画的世界などが典型だろう。私も決して 実践 かじわらいっ き 、のドラマツルギー 嫌いではない。が、野球や拳闘のみならず、この筋でいくと、雲術まで苦行をよしとするようになっ r> てしまう。(が、それはちょっとまずいのではないか。 スポーツや学間がある種の苦行を必要とするというのは真実だ。それは芸能でも同じであろう。 たしかに芸能で修行は絶対の条件であり、技は磨かれなければ到底見られたものではない。しかし 並兵術はどうであろうか。M術に修行が必要だろうか7的込提召(け手者の王述 たぶん、こんな疑問が出ること自体、私たちが芸術と芸能の区別があまりできていないことを示 しているのではないか。 はっきり言うが、芸術に技は必ずしも必要ではない。芸術に必要なのは、圧倒的に感性である。 (糖木野衣「感性は感動しない 美術の見方、批評の作法』より、 け 間 傍線部「それはちょっとまずいのではないか」とあるが、そのようにいえるのはなぜか。 次の選択肢O~@から最も適当なものを一つ選べ。 日本人は修行が好きで、努力した者が高く評価されるから。 芸能では技を磨くための修行は絶対の条件であるから。 芸術に必要なのは修行による技ではなく感性であるから。 まず、傍線部に指示語がありますから、指示内容をとらえましょう。 指示内容 芸術まで苦行をよしとするようになってしまう それは ちょっとまずいのではないか。 指示内容をとらえると、〈芸術まで苦 いる) こ!が 義キ麦れ3!! (が)

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ミロのヴィーナスで「ここには実体と象徴のある程度の合致がもちろんあるわけだか、」とありますがどういう意味ですか?

10 いようもなく僕に納得されたとLた たいと思うだろう、まさに、芸術というものの名において。 5 ここで、別の意味で興味があることは、失われているものが、両腕以外の何ものかであっ てはならないということである。両腕でなく他の肉体の部分が失われていたとしたら、僕 がここで述べている感動は、恐らく生じなかったにちがいない。例えば、目が潰れていた り、鼻が欠けていたり、あるいは乳房がもぎとられていたりして、しかも両腕が損なわれ ずにきちんとついていたとしたら、そこには、生命の変幻自在な輝きなど、たぶんありえ なかったのである。 なぜ、失われたものが両腕でなければならないのか?僕はここで、彫刻におけるトル ソの美学などに近づこうとしているのではない。腕というもの、もっと切り詰めて言えば、 手というものの人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。そ れが最も深く、最も根源的に暗示しているものはなんだろうか? ここには、実体と象徴 のある程度の合致がもちろんあるわけだが、それは、世界との、他人との、あるいは自己

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