総選挙が終わった。私は以前から投票に行くのがあまり好きではない。その根本にあるのは、「致」で
はないかと思う。多数決というが、私は数を信用していない。マイナンパーとか「清き一際」とか、白一
分が敷になるのは、できれば勘弁してもらいたい。数は抽象的なもので、投票行動はそれをいわば現実」
化する。そこに何か詐欺めいたものがあるような気がする。お金もその奥型である。お金が抽象だと意一
識している人は、どれくらいいるだろうか
早くネット投票ができるようにならないかと思う。ネットのほうが投票行為の抽象性が明難になるか
らである。役票所にわざわざ出掛けていくのは、「現に何かしていますよ」という結を強めるためでは
うっかりすると、コンピュータがすべてを置き換える時代が来る。そんな議論が始まった。私自身は
そんなことは信じていない。私の子供時代は、鎌倉の街中を牛馬が開歩していた。若い人にそう言って
も、ほとんど信じてもらえない。でも、そうだったのである。その牛馬に取って代わったのは車である。
それならコンピュータが人に取って代わっても、べつに不思識はないでしょうが、車とコンピューター
の違いは何か、車は運動系としての身体に取って代わった。だからタクシーの運転手さんはつねに運動
不足である。でもコンピュータに取って代わるのは、身体ではない。人の意識活動である
都市とは意識活動の政果である。その世界がコンピュータに置き換えられるのは、ごく自然である。
新聞や雑誌などは、意識活動そのものというしかない。だからネットで置き換えられる。それなら、紙」
操体はなくなるのかというと、なくならない。バソコンが導人されたころ、いまにペーパーレス時代が一
来ると言われた。いまは紙なしどころか、紙だちけである。人はある種の具体性から離れられない。
コンピュータはヒトに取って代わらない。意識活動の一部に取って代わるだけである。社会システム
は意識的であることが多いから、それをコンピュータが取って代わる。では社会システム外の人間活動
とは何か。あらためて、それが間われる時代になった
養老孟司『遺言』より
間いちばん重要な二項対立を挙げよ
Eそれぞれの具体例を三つずつ挙げよ
ないのか