学年

質問の種類

国語 中学生

わかんないので教えてください

和四(二〇二)年度 「吉」というのは、いか の問いに答えなさい。 けないな」が「真」なのです。 www. M す。 「真」というのは「本」のことで、ただの本ではなくて。 の上に載っかった本」です。一、二と数える時の 「 つまり「本」ですが、これが かってい るのが「食」という文字の形ですから、大切に扱わなければい 昔には「下らない本」というものが存在しません。 という みんな もので、「人生のお手本となるような、生き るための ただでさえ 書いてある深いもの」でした。 「食」で立派なもので、それが、「古い かれたもの」 だったりすると、 ヴェールきまとってしまうかもしれ ません。そういうものだから、「つまんなくてなもの」であ る可能性だって十分にあるのです。 今ではあまりそんなことが ないようですが、 がって んだり、本を踏んづけたりすると思られまし た。本というものが、「ためになる ことが書いてある大切 」ということは す る」ということで、「本」とはすべてが「 だったので なもの」と思われていて、「本 t' 日本人が椅子生活 「 するには、というも てむ」でなければならないものでした。 して 本を なければなりません。 の上に置いて 、本との距離が開いてしまって、どうして も背中が丸まります。 これはBADです。 でじたもので、一がそんなに厚くも重くもありません。だ から、手に持って本を読み続けると手が疲れてしまうというこ ともありません。その代わり、本がんだりします。それで は にわらずに読めるようにする 」という ものがありました。それほど高くはない のようなもの で、ここに いてきその をして読むのです。 の上に載せられた本」だから「典」なのですが、「食」を むのは大変なんです。 本というものはみんな もの」で、ある時間まで「 らない本」というものは存在しませんでした。 どうしてかと言 うと、それは本というものの のあり方と関係して きます。 大昔の本は、 一冊ごとの手書きです。 そんな時代、という ものはなものですから。 下らないことには使えません。 という手段が生まれて、 フクス フタスクの本を手書きではなく作り 出すことが出来るようにならないと、出願は成り立ちません。 というとゲーテンベルクの印ですが、 日本の町 時代にヨーロッパで開発されたこの技術が日本で一般的になる のは、 でも、それ以前の日本に本 時代になってからです。 印刷する技術がなくて、出版というものが成り立たなかった のかというと、そんなことはありません。 西洋式の と は違う、という技術がありました。 文字がずらっと並んで いる本の一ページを、そのまま木版で思ってしまうのです。 見台が存在した時代の本は、そういうものでした。 その頃に本を作るのは、とてもお金がかかります。 まず、 ADA (注意) 解答はすべて別に記入すること される本文をきれいに ますが、 と同じですから、 する 者がいます。」と 画 それを仕事とする人が担当します。 た して木に貼っ 思ったらその ます。 たとは別 その上から なくなってしま いますから、 された文字 が必要なのです。 コピーのない昔はそんなめんどうなこと しました。 木に貼りつける 人がいて、それがまた 側にいて、思られた版木で紙に印刷する人がまたにいます。 その人達全員にギャラが支払われます。もちろん本ですから、 これが一枚ですむわけはありません。長い本なら、 このコウテイ 百も二百回も、下手をすれば千回と繰り返されてしまい ます。 そして、木を使って印画すると、木が贈り減るという ことが起こります。 一枚の って仕上がりがきれいにな るのは二百枚くらいが限度とされて、その 「一杯」と 言ったりするのですが、二百しかれない少数部の本なの コスト にかかるのです。 今だと、「本を書いたら印が入って届けが出来る」と 逢ったことを信じている人がいますが、もう本はそんなに売れ ないので、よっぽどの一部の人 はけが出来ませ ん。 そして、木で作っていた江戸時代には、「印」と いうがありません。なにしろ、とんでもなく金がかかって です。 こんなものを売ってからはずがありません。だ かかる費 職人の費用や代や代は全 あるいは「この本を出版したい」と思う人が支払いま す。この当時の販売は、「出したいと言うのなら をします。 私が売って差し上げますから、その分の から は全部出して下さい」というようなものでした。 その本が売れたら、売れた分のお金は全部出版販売に入 ります。 それ以外の人が本を出したいと思っても、一銭もか ません。では、そんな時代になんだって人は「本を出した い」なんてことを考えたのでしょうか? 理由は一つです。 この本を出しての人にいろいろなことを知らせたい」 です。 昔に書かれた手書きをして、 を高めたい」とか、「私の考え方を知って下さい」とか、そう いう真面目な目的で、本を出したい人は自を切るのです。 が「立派なもの」で「してまなければならないもの」で あるのは、このためです。 橋本「古典を読んでみましょう」 ちくまプリマー新書より) グーテンベルク・ヨハネス・グーテンベルク 一三九八年頃 四六八年) ドイツ出身の金細工、印 印刷技術の発明者といわれ、広く 知られている。 み合わせて作った印を用いて する方式 木の板に文字や絵などを刻んだ それで買った な」のことで EN S 3 木 $ spol 化す いもの なる自 PER RUNCHRE aleのカタカナは漢字に直し、漢字は読みをひらがなで書きなさい。 二重人」の本文中での意味を次のア~ウの中から一つ選び、記号で書きなさい。 アく一部の人に行きること。 イ一か所にとどこおらず、流れること。 ある現象で、式が一時的に広く行なわれること。 「古い時代に書かれた立派な本」と対比されている言葉を本文中から五字で抜き出しなさい。 RE 「本」とはすべてが「教科書だったのです。」とあるのは、「本」にはどのような存在意義があるからか。 本文中から三十一字で探し、最初の五字を書きなさい。 (句点は一字として数えます。) 「それを仕事とする人」の「それ」とはどのような仕事を指しているか。 「~という仕事。」に続くように本文中から 十六字で抜き出しなさい。 (句点は一字として数えます。) 六 本が「立派なもの」で「正座して読まなければならないもの」であるのは、このためです。」と述べた理由を、 次の文に続くように本文中の言葉を用いて、五十字以内で書きなさい。 その際、具体例を明確に挙げて書くこと。 句点は一字として数えます。) 本を出して を持つ人がいるため、 七 太郎 「差し上げます」と同じ種類の敬語表現を次のア~エの中から一つ選び、記号で書きなさい。 ア はい、田中でございます。 イ先生がすぐ来るようにとおっしゃった。 ウ午後五時にお迎えに参ります。 皆さんで召し上がってください。 同八 本文中にある「自腹を切る」という慣用句を例に、次の1~2の()に漢字で体に関する言葉を入れて、 慣用句やことわざを 完成させなさい。また、その意味として当なものを ア~オの中からそれぞれ一つ選び、記号で書きなさい。 1 鬼の( )にも涙 (12( )に水 ア 素晴らしさなどで見とれさせる。 驚いたり感心したりして言葉も出ない。 冷酷な人も、たまには情け心を起こすことがある。 オ 食べ物の味が好みに合う。 突然思いがけないことが起きて驚く様子。 九 本文の内容に合っていないものを、次のア~エの中から一つ選び、記号で書きなさい。 ア「古典」の「はただの本ではなく、「台の上に載っかった本」であり、 「大切に扱わなければならない本」である。 イ印刷技術が一般的になったのは明治時代だが、実はそれ以前から、日本でも西洋式の印刷技術が使われていた。 江戸時代、本を出すとなれば、印刷にかかる経費は著者あるいは出版業者が全額負担した。 さらには、本が売れてもその分の金額 は著者には入らなかった。 本というものはそもそも立派なものであり、昔には「下らない本」というものは存在しなかった。 しかし、出版の発達により既に 江戸時代には「下らない本」というものがあった。 次の文章を読んで後の問いに答えなさい。 高校一年生の梨乃は東日本大震災で兄・樹を亡くし、埼玉 県の中学校に転校した経験を持つ。そこでクラスメイトから同 情的な目で見られていたことに心の負担を感じた梨乃は、知り 合いの誰もいない東京の高校に進学し、以前から入りたかった 吹奏楽に熱中する。 本文は現在の梨乃が故郷・宮城県にいる友達・ 菅原太一は、兄である貴樹の親友だった。同級生であり、部 活も兄と同じ卓球部だった。(1)、小学生だった梨乃の値 れの人でもあった。大地震の一ヵ月ほど前のバレンタインデー に、梨乃は初めてギリではないチョコレートをあげた。太一 は、お返ししなきゃね、と言ったが、その後の地震と津波で、 ホワイトデーどころではなくなった。 愛希からのメールで転校前の恋人のことを想うシーンである。 KI RII HA

回答募集中 回答数: 0
数学 中学生

中3の2次方程式の問題です。 全部分からないです( ;‪  ̫ ; ) 詳しく教えて頂けると助かります߹𖥦߹ お願いします🥲🙏🏻

AL/ 21. 3章・2次方程式 活用しよう! この章で学んだ考え方を活用して, 身近な題材の問題を解いてみよう。 ーガウスの計算方法に挑戦! いだい ドイツのれんが職人の家に生まれた偉大な数学者カール フリードリヒ・ガウス ( 1777年~ 1855年)は,小さい頃から計算能力に優れ, 1から100までの自然数の和を,次のように計算し たといわれている。 1から100までの自然数の和をSとすると, DA S= 1+2+ 3+ + 98+ 99+100 +) S=100+ 99 + 98 + + 3+ 2+ 1 2S=101+101+ 101+ ······+101+101+101 101が100個 よって, 2S=101×100 したがって, S=101×100÷2=5050 この考え方を用いて,右のように, 1cmの正方形を 1段目に1個, 2段目に2個, 3段目に3個, 段目にn個を並べた図形の面積を考える。 次の問いに答えなさい。 1段目 2段目 3段目 QRコードからヒントの 動画が見られるよ。 : n段目 ② この図形の面積が300cm²になるとき, n の値を求めなさい。 : in 1 正方形を,1段目からn段目まで並べた図形について,次の問いに答えなさい。 ① この図形の面積を, n を使った式で表しなさい。 1からnまでの自然数の和をTとして, 考えてみよう。 2 正方形を何段か並べたとき, 5段目から75段目までの図形の面積を求めなさい。 学3年 3章 2次方程式 67

未解決 回答数: 2
数学 中学生

2️⃣で75-50+1と1をたすんですか

活用 この章で学んだ考え方を活用して, 身近な題材の問題を解いてみよう。 ドイツのれんが職人の家に生まれた偉大な数学者カール・フリードリヒ・ガウス (1777年~ 問題 いだい 計算したといわれている。 1855年) は, 小さいころから計算能力に優れ, 1から100までの自然数の和を、次のように |から100までの自然数の和をSとすると S= 1+ 2+ この考え方を用いて, 右のように, 1cm²の正方形を 1段目に1個, 2段目に2個, 3段目に3個, n段目にn個並べた図形の面積を考える。 次の問に答えなさい。 よって, したがって, T= +) S=100+ 99+98++ 2S=101+101+101++101+10+101 段目まで並べた図形について,次の問に答えなさい。 ① この図形の面積を, n を使った式で表しなさい。 1からnまでの自然数の和をTとして, 考えてみよう。> n(n+1) 2 よって, 2S=101 x 100 したがって, S=101×100÷2=5050 (+) U=75+74+73+・ 2U = 80+80+80+ →1からnまでの自然数の和をTとすると T= 1 [ + 2 + 3 +......+(n-2)+(n-1)+ n +) T= n +(n-1)+(n-2)+….....+ 3 + 2 + 1 2T= (n+1) Xn n(n+1) 2 ② この図形の面積が300cm²になるとき, nの値を求めなさい。 ET=300 のとき, これを解くと, n(n+1)=600 n²+n-600=0 (n-24) (n+25)=0 3++ 98+ 99+100 3+ 2+1 2=(n+1)+(n+1)+(n+1)+….....+(n+1)+(n+1)+(n+1) n+1がn個 よって, したがって, U=2840 2U=80×71 101が100個 ....... -=300 8071個 L75-5+1 1段目 2段目 3段目 n=24,n=-25 nは自然数だから、n=-25は問題に適していない。 n=24は問題に適している。 2 5段目から75段目までの面積の和を求めなさい。 5から75までの自然数の和をひとすると, U= 5+ 6+ 7+...... +73+74+75 ..+ 7+ 6+ 5 +80+80+80 n段目 E LE n(n+1) 2 -em n=24 1①を使って 1から75段目までの和から, 1から4段目までの和をひいて求めても いいよ。 2 2840cm 3年 3章 2次方程式 71

未解決 回答数: 1
日本史 高校生

ここの部分がわかりません。誰か教えてください🙇‍♀️

700 BC500 BC300] 陳 BC100 AD100 ポイント整理 国家統合への流れと大陸文化の波及<史料は “キーワード" で把握〉 中国 朝 鮮 で き 南斉 ok 東晋 Spons 300 晋 20 北魏 前葵 後漢 3602 五棚 HOFF 六 313) とヤマト政権 346 356 #ry 7562 668 660 663 ばくそんこう 白村江の戦い」 え 201 EB ENCARA NORINDELIGDAGSLYON 5つの史料を柱として、 小国から国赤統合へ の流れを把握しよう GANGNGH 6世紀初頭丸都 の朝鮮半島 加耶( ・ 平壌 ●城 安 「18 P ・・・養蚕・機織 14 医.21 9 [国名] (?~668) ( 4c 半~562) 第1波: 漢人系渡来人ら くろう ぐん 背景: 楽浪郡滅亡 倭の朝鮮出兵 影響 ①伴造品部への編成 13 (4c4-660) (4c半~935) 城(金) ・任那) ②仏教公伝一百済の24 (→秦氏) ・「隅田八幡神社人物画像鏡」 TAR ③須恵器の伝来18 第2波 韓民族系渡来人ら 背景: 高句麗・新羅の強大化 影響: ① 飛鳥文化に寄与 20 (→東漢氏) ・・・史部 (→西文氏)..... 文筆 出納 ②漢字の伝来… 主仁 「論語」 「学校」 LS 6 k .18 神宮七支刀」 ¹7 と [水稲農耕の開始 集団間の抗争 小国の分立 ごろじえん 538年説・・・ 「元興寺縁起」 ・△552年説・・・ 「日本書紀」 部が製作 6 「漢書」 "百余国* 7 「後漢書」 奴国大乱” ヤマト政権成立] [内 28 「魏志」 「古墳出土鉄刀」 古墳出土鉄剣」 [半島進出] ---29 “邪馬台国” だいせんりょう みん 大仙陵古墳(大阪) しんぼう 辛卯の年 (391)" 30 「宋書」 “倭の五王” さんちん せいこう 31 ( 讃珍済興 環濠集落 弥生 高地性集落 32 が欽明天皇へ伝える の碑文」 墳発生! 博士・・・儒教伝来 ・博士 ・・・百済僧。 暦を伝える EL & DeCAD ・・・・高句麗僧。 紙 墨 推古朝 吉見百穴(埼玉) 絵の具を伝える 巨大化 大 2 時代 (八角墳) 古墳 (飛鳥) 寺院 (白) 1章 日本文化のあけぼの 7 2 古墳時代の区分と特徴 〈ヤマト政権の支配領域拡大と、朝鮮半島派兵との関連が2つの視点> 400 700 [後期] [終末期] 7C末 22 AD250 3C中頃 分布 墳丘 墓室 副葬品 東日本 前方後方墳 西日本 主な古墳 銅鏡( ...44 300 [前期] 地方中心 (有力者) 豪族 後円部 ◆ゆえに 式石室 (下図) または粘土 一木橋・石箱 主に45 後に家形器財埴輪も出現 JA 江田船山 ・・・ 鉄刀出土 いりやま 稲荷山…… 鉄剣 〃 いわせん 岩橋千塚・・・ 群集墳 4C後半 製腕飾りなど 器具など 者的性格の被葬者・武人的性格の被葬者 埴輪 【作業】 白地図中に次の古墳名を記入せよ。 箸墓・・・ 卑弥呼の墓? んぴょうやま 誉田御山(伝応神 大臣 - [皇別氏族] - 氏上② 民人 たかまつづか 高松塚・・・・・・壁画が著名 大仙陵(伝仁徳天皇陵) ・・・百舌鳥古墳群 31251 造山・・・有力地方豪族の古墳? 2 いわやま 岩戸山・磐井の墓? 部曲 56 部民 [私有地) 伴造に従う職人集団。 *5*15 にしこり すえつ 韓鍛冶部、錦織部 陶 どころ 田荘 [ 中期 全国的に拡大分布 伴造 前方部 くらつくりべ 部 鞍作部 史部など 前方後円墳の巨大化 (例:2 2010 古墳 誉田 山古墳) 一円埴輪 鏡) 朝鮮での戦闘が影響し、鉄製武有力農民の墓が増加 人物・動物などの“ 3 支配体制と氏姓制度 (6世紀頃)・・・・・○内は姓 (カバネ) ヤマト政権は豪族を氏という血縁集団 中 央 地方 し、地位に応じ姓 (カバネ) という称号 大王家と同祖先を皇別、 他を神別とし から大臣 大連が選ばれ政治を主導 とも ともみ ・職能団体を伴といい、 その長が伴 ・県主・稲置 しなべ とらいじん が品部。 渡来人はこれに編成された (②) (⑩) KERAN ・服属した地方豪族には国造な 君造などの姓を与え、 地方支 豪族の私有民を 4+1 という 族の部曲からは、屯倉の設置の を、皇族の生活物資の生産の の部を割く。 な 含めた従属民の総称が 大連 [神別氏族] 氏上 氏人 部曲 田荘 前期 中期 後期 57 田部 500 5C末 58 名代 学 前方後円墳の終焉 (6C末~7C初) 大王墳の 化 (終末期) 境の急増... 円墳 ★ゆえに 式石室(下図) 部曲- 朝廷の直轄地。 5世紀末以降, 反乱後に田荘を接収するなど 各地に設置, 支配を強化 石棺 (追葬可) ・・・・馬具・装身具の他、土器など の日常生活具が中心 埴輪が葬送儀礼用につくられる 中央・地方豪族の私有地

回答募集中 回答数: 0
現代文 高校生

問5,6解答根拠が全くわかりません。 教えてください!

第三講 社会 六山崎正和『日本文化と個人主義』 次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。 明治から大正の前半にかけて、日本の知的社会の構造は単純であって、ひと握りのエリートと 大多数の大衆に二分されるだけであった。もちろん、知的な階層性は経済的な階級性とは異なり、 上下の差は漸層的なものであって、かなりの程度に主観的な要素によって作り出される。経済的 な力とは違って、知的な優越性は個人の努力によって達成されやすいし、実際、日本の近代化の LG 過程で知的なエリート、あるいはエリートだと自認する人間の数は着実に増えて来た。しかし、 この過程を支配していたのはあくまでも二極対立的な価値観であり、一方に エリート、他方に大 衆、いいかえれば「学界」と草の根層を対置する単純な社会の構図であった。 これにたいして、大正後期に始まった知識社会の急激な膨張、いいかえれば、知的な階層性の 急速な暖味化は、“皮肉なことに、知識人のあいだにかえって主観的な階層性の意識を増大した。 本来、エリートとは定義上、選ばれた少数者のことであるから、その数が膨張することは 1_ そのさい膨張したエリート階層のなかに新たな区別の意識が芽ばえ、純粋なエリートとそれに準 ずる人間を階層化しようとするのは、自然な心理の動きであろう。その結果、昭和初年の日本に 現れたのは、エリートとそれに準ずる知的な中間階層、ならびに旧来の大衆層からなる、いわげば 1三層構造を持った知的社会であった。 mどんな場合にも、社会の階層的な区別は、区別によって下積みに置かれた側によってまず鋭く 5 意識される。新たな階層化の出現を意識したのは、いうまでもなく一 であり、それとともに N 急成長を見せた新聞、出版ジャーナリズムであった。一九一七年、ロシアに起った革命は、その一 なかで活躍した食体制誘な知識人、いわゆるインテリゲンチャの存在を世界に知らしめた。日本 でもこの言葉が輸入され、やがてその短縮型「インテリ」が流行語になるにつれて、これは新し るリの い知的な中間階層がみずからを同定し、呼びならわすための恰好の用語となった。昭和初期の知 識社会は、主として学界に生きる専門研究者と、主としてジャーナリズムに拠るインテリのあい だで、しだいに目に見えるかたちで分裂を深めて行った。新興のインテリの複雑な「自侍 と学界人への反抗心は、昭和二年(一九二七)七月の日付を持つ、「岩波文庫」の発刊の辞にじつ にみごとに要約されている。 I真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。 S かつては民を愚味ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と 美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文 庫はこの要求に応じそれに励まされて生まれた。それは生命ある。フキュウの書を少数者の書斎 と研究室とより解放して街頭にくまなく立たしめ民衆に伍せしめるであろう。 5 流行の社会主義用語をちりばめながら、ここで筆者が直接の敵としているのは、「少数者の書斎0 と研究室」である。はたして、知識と美が特権階級に独占されうるものかどうか疑わしいし、そ れが物質のように奪い返せるかどうかもっと疑わしいが、ともかく、この筆者の眼にある種の知 職人が特権階級のように見えていたことは、確実である。 Caして、さらに確実なことは、この将権階級が社会的にどういう地位にあるかは問わず、少な

回答募集中 回答数: 0