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漢文 高校生

漢文の画竜点鯖なんですけど 再読文字とはどういうものですか⁇ また、この文章だったらどこが再読文字なのか 教えてほしいです👏🏻

XE ole mul 日 月 四白竜 を点せざる者は。 口語訳 ①張僧呉中人也。武帝崇一鍮仏寺、多 書き下し文 張噌孫は呉中の人なり、武帝仏寺を飾して多く T である 人であった。 お寺と 口語訳 張宿録は呉中の人である武席を立派に装飾して多くのお寺を命令して かせた。 Em (m) 竜、不点眼睛。毎 「点、 飛去。」 金陵安楽寺四 白 書き下し文 金陵の安楽の四目竜は 点 を点せず囃ち飛び去ら 飛び去らん そして常に言うとは 仮客 口語訳 金陵の安楽の四頭の白竜は瞳を(乳と)と画かなかった。私が竜の瞳を画いたならば 飛び去ってしまうだろうと。 ③人以為妄誕 妄誕固請点 奥 雷電破壁、 書き下し文 人以って妄誕としくんで点せんことを請心。須史にして 雷電壁を破り 口語訳 これを聞いた)人には まち雪が壁と 言うことそうでたらめだと思い強く(水)を描く ことを求めた。 き下し文 竜乗雲、謄去上天。二竜 点眼者見 竜雲に乗りたり上夫に去る。二章の未 語訳 一匹の安は一気に乗って躍り去って天に昇っていてしまった。 二匹の丘び 見在す。 曜を描いていないものは(安楽寺)にある。 ③②① 「之」の指示内容 ①「の」→格助ひらがな 「これ」+代名詞「え」 こちら 九重 即 すなわちと読む文字はい 「之」の指示内容 以A為B A・Bを補っ て訳す 人々はで 月を以ってBとす。 けるとする。 信飾が嘘を画主込んだ竜 再読文字の確認飛び去ろし

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世界史 高校生

一問だけです。教えてほしいです。お願いします!写真の中に答えがあると思うのですが、合っている自信がなく質問しました。教えていただけるとすごくありがたいです。嬉しいです。 「北魏が実施した土地と農民を把握し、税の確実な徴収をはかる制度は何か。」 よろしくお願いします。_(._.)_

五胡のたてた諸国のなかで、 鮮卑の拓跋部のたてた ほくぎ たい ぶてい 北魏が台頭し、太武帝が439年に華北を統一した。 386~534 へいじょう こうぶんてい 位 423-452 ふく だいどう 孝文帝のとき、都を平城 (現在の大同市) から洛陽に移し、胡服の禁止な 位 471~499 ダートン 南北の対立 どの漢化政策をすすめた。 このような動きのなかで、 均田制が施行され, - ➡p.55 戸籍を整備するため三長制も実施された。 これらの諸制度は, 土地と人 はあく 民の正確な把握と, 税の確実な徴収をはかったものであった。 ところが,漢化政策は北方に残った人々の反発をまねき, 軍隊の反乱 ほくせい ほく をきっかけに北魏は東魏と西魏に分裂した。さらにそれぞれが北斉と北 534~550 535-556 しゅう 周にかわり 北周が北斉を併合した。 北魏以後のこれら華北の5王朝を 556~581 北朝という。 439-581 一方, 江南の東晋は約100年続いたが, 臣下の武将が実権をにぎるよ そう せいりょう ちん うになり,以後, 宋・斉・梁・陳の4王朝が興亡した。 これらを南朝とい 420-479 479-502 502-557 557-589 <->2 420-589 りくちょう い 北朝と対立した時代を南北朝時代という。 また, 呉・東晋を加えた 江南の6王朝は,いずれも健康 (呉の建業) を都とし, 六朝と総称される。 華北から江南に移ってきた多数の貴族・豪族・農民らは, 豊富な水と温

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世界史 高校生

世界史出来なさすぎて困ってます💦空欄箇所を教えて頂きたいです…泣

秦によって始まった中央集権的な官僚支配体制を完成したのは漢である。前202 部を征服した。しかし厳しい政治と遠征による重税に民衆は苦しみ, 彼の死後に |た。武帝の時代には実質的に(') 制に移行し, 中央集権体制が確立された。彼 は積極的な外交をすすめ, 北方の匂奴討伐など。四方に遠征軍をおくり領土を拡大 )制を全国に実施し, また。貨幣·度量衡を統一し, 思想文化の面で 30 秦·漢 )を都に,中国ではじめての統一国家を形成した。 秦王政 専制政治による中央集権国家の基礎をつくった。 成功し(' )と称し, は(? も( )を修築して何奴の侵入に対抗し,南は華南 ベトナム北 代以来の( 各地で反乱がおこり, 前206年に秦は滅んだ。 )を都として中国を統一したが,首都を中心に 年に漢の高祖は(6 統治制度を( めたため諸侯は反発し, 前154年には (° )制という。しかしその後諸侯の権力を削減する政策を進 )が起こった。この乱後即位し した。さらに西方の(° )と同盟して匂奴を挟撃しようと (10 を西域に派遣し, 同盟は成功しなかったが東西交通をさかんにする契機となっ た、一方国内では, 各地の特産物を徴収し不足地に転売して物価の調整を行う )や、物価低落時に買い込んだ物資を物価高騰時に売り出して物価を )を実施した。しかし武帝が死ぬと実権は皇帝から側近に 安定させる(12 移り(13 )や外戚が横暴をきわめ, また地方では広大な土地を所有し勢力 )が実権をにぎり,こうした情勢の中で漢は滅亡した。 )は,周の政治を理想として社会の実情を無視 大規模な農民反乱の混乱の中で新は滅んだ。 を伸ばした(4 漢を奪い新を建てた(15 したため(14 )の反発をまねき, 漢の一族にあたる劉秀は漢を復興して(16 年間は国内も安定し1世紀の後半には全盛期を迎えた。後漢は (17 域都護として派遣し西域50余国を支配下におき, また彼の部下の (18 を大秦国へ派遣するなど西域経営にも力を入れた。 2世紀に入ると政権争いが激し )を都と定めた。この後80 )を西 くなり,地方でも (14 張角が率いる(19 )が勢力を伸ばしていた。やがて宗教結社太平道の指導者 )が勃発すると国内は混乱し, 220年に後漢は滅んだ。

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